2020年10月27日

長明の最期

「方丈記」付 現代語訳 簗瀬一雄 訳注 角川ソフィア文庫 1967年

最終章 p93〜
 「さて考えてみると、私の生涯も月が傾くように終わりに近く、余命も少なくなった。もうすぐに、三悪道に落ちようとしているのだ。自分が一生の間になした行為を、今さらなんでとやかく言おうとするのか。仏の教えくださる大切な点は、なにごとにつけても、執着を持つなということである。 −− 私が今、この草庵を愛する気持ちも、罪科となろうというものだ。しずかな生活に執着するのも、往生の障害となることであろう。どうして、これ以上、役にもたたない楽しみを述べて、もったいなくも最後に残ったわずかな時間をむだにしようか。いやいや、そうしてはいられないのだ。

 静かな夜の明け方に、この道理をよくよく考えて、そこで、私自身の心に向かって問いを発してみる。 −− 長明よ、おまえが世俗から脱して、山林に入りこんだのは、乱れやすい心をととのえて、仏道を修行しようがためである。それなのに、おまえは、姿だけは清浄な僧になっていて、心はけがれに染まったままだ。住む家は、まるでそのまま浄名居士維摩の方丈の小室をまねてはいるが、そこでおまえのやっていることは、どんなに見つもったって、周利槃特の修行にさえもかなうものではないぞ。ひょっとすると、これは宿業のむくいとしての貧賤がおまえ自身を悩ましているのか。あるいはまた、みだりな分別心、なまはんかな知性がこうじて、気が狂ったのか。さあ、どうだ。 −−こうして問いつめた時、私の心は、まったく答えることができない。答えられないのだ。残った方法は一つ。ここに、けがれたままの舌をうごかして、阿弥陀如来をお迎えする儀礼もととのえず、ただ念仏を二、三べんとなえるだけ。それで終わったのだ。
 今は、建歴の二年*、三月の終わりごろ、出家の蓮胤、日野の庵において、この文をしるすのである。」

建歴の二年* 西暦一二一二年
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鴨長明の諦観
posted by Fukutake at 10:57| 日記