「教科書では読めない 中国史」 冨谷至 小学館 2006年
晴明上河図 p221〜
「北宋末期の開封の清明節*を描いた絵画が伝わっている。張択端「清明上河図」。作者とされる張択端に関しては、具体的なことはほとんどわからないが、李清照、孟元老と同時代の人間である。図に描かれているのは清明の日、郊外から抃河(べんが)を上る情景である。(https://ja.wikipedia.org/wiki/清明上河図)
まず図の右から城外の田園風景が描かれる。清明節、城外の墓にお参りに行くことを意識しての構図であろうか。やがて、運河が現れて、荷の積み降ろしをする大型船が幾漕も碇泊し、行き来する船が見える。そしてその船が航行できるアーチ形の橋、橋の上を大勢の人が行き交い、露店が並んでいる。ブルダバ(モルダウ)川にかかりプラハ城に導くかの有名なカレル橋のような賑わいを想像すればよいだろう。一説には抃河東水門ともいわれている城門からは、ラクダを引く商人が出て行こうとしており、城内に入ると道の両側に食堂、酒家をはじめとするさまざまな店が建ち並び、床几が置かれて人々が溢れてその喧騒ぶりが聞こえてくるようである。やがて絵画は左端であたかも切り取られたかのような終わり方をしている。もとは、さらに図が続いていたのだろうか。否、この突然のピリオドは、開封の繁栄が金の侵入によって、一瞬のうちに夢幻と化したことを象徴するのか。
とまれ、「清明上河図」に描かれている情景は、まさしく『東京夢華録』が記述する生き生きとした町の賑わいそのものである。
書物や絵画が描く宋の都開封の情景、唐の都長安もこのようなものであったのかといえば、そうではない。ともに百万以上の人口を擁する都だが、開封と長安とでは都城の景観、機能に関してまったく異なるものだった。渭水盆地に位置し、四方を山と川に囲まれた長安は、天然の要害ともいえる軍事都市であるのに対し、開封は四通八達の交通の要所に位置し、商業流通の都であった。
両者のこの機能のちがいは景観にも表れている。長安は108のブロック(坊)と東西ふたつの市からなる碁盤の目のごとき条坊制をしいていた。南北のメインストリート朱雀大路は、150mほどの道幅で、東西の都大路も幅が70m
もあった。しかし、道には商店など一軒もなかった。道の両側には坊の障壁が連なるのみ、市場も正午から日没までと限られ、人々は四方を壁に囲まれた坊の中で生活し、坊門は日没とともに閉められ、夜間の外出は禁止されていたのである。… しかし、このような坊制は宋になると姿を消す。坊墻(ぼうしょう)を崩して家や商店が道を挟んで立ち並ぶ侵街という現象が起こり、道路は交易と娯楽の生活空間へと変貌したのである。ここに、「清明上河図」に描かれた近世の都が誕生するのである。」
清明節* 春分から十五日後、先祖を思い、宴会や食事を楽しむ日。
-----