2020年10月22日

人間のココロ

「ココロとカラダを超えて −エロス・心・死・神秘− 」
  頼藤和寛 ちくま文庫 1999年

 p94〜
 「そもそもわれわれは子供の頃から、一たす一は二とか、ブタは不潔だとか、殺人は大罪だとか、必ずしも根拠十分とはいえずともそう思い込むことで社会に同化しやすく、仲間入りさせてもらいやすい思惟内容・情操内容などの情報をどっさりつめこまれた強固な条件づけの重層化を経て成人するのです。また深部に蠢く情動も、表層に沈着した文化学習内容から選ばれたレッテルを貼った上で自覚されますから、幽玄からのメッセージを読みそこない、全てが世間並の体験へと翻訳されていきます。いずれにせよ、「私」の経験できる自分自身というのは、「私」につめこまれた社会通念や文化の枠組みに濾過されたあとの自分自身なのです。いきおい、それに反する非合理な物騒な心的内容は、仮にあるとしても「私」領域外へ排除されることになります。
 このように一旦、日常の「私」の領域から排除され不可触領域にほうり込まれた心的内容は、ふつう無意識とか潜在意識とか呼びならわされています。その非日常的な世界は我々の好奇心をいたく刺激しますが、さりとて自分のそれにはあまりお目にかかりたくないものです。なぜならもし安直にお目にかかれる程度のものなら(我々がそれに直面できるほどの強さや図太さをもっているなら)、別に領域外に追放するには及ばなかったはずですからね。
 幸か不幸か、一部の人ではこれが勝手に噴き出して表面化することがあります。本人はたまったものではない。たちまち彼の「私」体制は崩壊の危機にみまわれます。社会は、それを忌んで「精神病」と名づけるのですが、でも厭わずに彼らを観察いたしますと、一体、何が平常人の「私」領域から除外されていたのかがハッキリすることが多いのであります。たとえば、ふだん控え目だった人がスゴイことを口走り、幼児的になったり支離滅裂になったり、時にはそうした症状学が追いつかぬ混沌そのものに化したりします。
 それらは決して非人間的な現象ではありません。むしろ言葉の真の意味で全人的あり方なのであって、逆にマトモな連中の方が社会で通用する部分だけをかきあつめた偏向的人間であると申せましょう。
 こうした症例にたくさん当たって思うのは、自分たちとは別人種だとか、単なる脳の故障だとかで済ませては勿体ないので、実に我が身をふりかえり、さてはかかるワケのわからぬ材料が自分にも潜んでいるにちがいない、と勉強させていただくのがよいのです。
 こうした謙虚さは、たまたま物質文明・科学至上主義の世の中だから我々から除外されただけの超常現象やら超能力やらをまだお持ちらしい人々に対しても適用されねばなりません。ははあ、さては自分にもそうした力がかくされているのかもしれないな、と感心すればいいわけです。」

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「こころ」という神秘
posted by Fukutake at 08:41| 日記