2020年10月19日

耶律楚材とモンゴル

「耶律楚材とその時代」杉山正明 著 白帝社 1996年

モンゴルへの賭 p254〜
 「一貫して、銃後にありつづけた楚材が、チンギスの西征、現代風にいいなおせば、中央アジア・イラン・アフガニスタン・パキスタン作戦終了後、ただちに実施された西夏討滅作戦の余燼を見聞しながら、ゆっくりと、華北へ帰還してきたとき、金朝は、完全に、黄河の南だけに、逼塞を余儀なくされるまでに、追いつめられていた。
 時は移り、人は変わり、モンゴル側の陣容も大きく様変わりしようとしていた。楚材は、まことに、幸せであった、というよりほかない。
 さらにここで、ひるがえって、気になることのもう一点は、けっきょく、楚材は、なぜ、モンゴルに仕えたか、という点である。もっとも肝心な点である。
 これは、率直にいって、きっちりと正確には把握しがたい。しかし、ひとつには、不満であったろう。
 中都赴任を命ぜられた時点で、楚材は、自分が、ときの金朝政府から、期待されている人間ではないことを思い知った。捨てられた、と思った時、別の生き方が見えてきたのかもしれない。もし、そうであるならば、金朝に見捨てられた楚材が、金朝を見捨てたことになる。
 もうひとつは、もちろん、野望に相違ない。
 楚材は、金朝を。もはや将来がないと見限った。モンゴルに投ずることが、成功をもたらすかどうかはわからないが、金朝の一官僚として生きるよりは、ましにおもえた。
 そして、中都開城後、参禅だ、なんだと、日を送って情勢ながめをするうちに、モンゴルは、毛並みのよいキタン貴族である自分を、高く買ってくれそうなことがわかった。かたや、黄河の南の金朝では、キタン族が、ほとんど離反したために、キタンの血をひくだけで生きにくい状況となっていた。
 そのころ、耶律楚材は、まだ二十代のなかばでしかなかった。しかも、異様なほど、プライドの高い男であった。いまさら、黄河の南に逃げ込んだ金朝のもとへ戻るのも、莫迦らしくおもったとしても不思議ではない。
 楚材は、なお、海のものとも山のものともつかないけれど、逆に、それだけに自分にとっては、浮上のチャンスも多いだろうモンゴルに、身を投じるほうを選んだ。ようするに、モンゴルに賭けた。
 その賭けには、モンゴルならば、自分の血筋・家柄・教養が、十分に尊重されるはずだという計算が潜んでいたことは、疑いない。打算の賭けであった。
しかし、このときの楚材の決断を、非難できるほど、じつは、われわれも純粋無垢ではないだろう。
 人は、みな、平凡な存在である。平凡な存在であるからこそ、さまざまな夢と打算のなかに、たゆといながら、日々のくりかえしのなかで、ひとりよがりな夢をおもいえがく。また、それがかなわねば悲嘆にくれ、ときには歎くどころか、のろうことさえしつつ、死のときまで、うたかたの人生を送りゆくものなのだろうから。」

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最後は筆者の諦観か。
 
posted by Fukutake at 08:33| 日記