2020年01月14日

過去を視る

「ユーラシアの東西 − 中東・アフガニスタン・中国・ロシアそして日本」
 杉山 正明 日本経済新聞出版社 2010年
(その2)
人類という立場からの世界史

p154〜
 「(新しい世界史)において、紛争や対立をのりこえる視座や思考は不可欠である。かつての西欧ないし欧米は、みずからを優位におくあまり、そうでないものを「異なるもの」として、ことさらに蔑視や差別感をあおるような文明観・歴史観をつくりだしてきた。それは、政治家・宗教家・思想家にとどまらず、歴史家・歴史研究者も、自分が実は十分に理解しきれていないものについてはむしろ、ともすればマイナス思考に傾きがちであった。
 学者が対立を助長することもある。たとえば、「文明の衝突」などといった浅はかな頭脳がひねり出した虚構と単純化が、お粗末で攻撃的な権力に「錦の御旗」をあたえて実態化させてしまい、世界に多くの不幸と災厄をもたらしている愚をわたくしたちは目のまえに見ている。(十数年もまえ、筆者がハーヴァードに滞在していたおり、ハンティントンなる奇矯な人物の語ることを、ほとんど誰も相手にしていなかったことを思い出す)。
 世界史をふりかえれば、西欧が浮上した十八〜十九世紀以降、むしろ野蛮と暴力・殺戮・破壊はどんどん激しく大規模になっている。「文明化」というもの、そしてそれにともなう美化された対立・抗争の図式においては、プラスとマイナス、はたしてどちらが大きいだろう。過去と現在を眺める行為は、ときに現在が創作した過去をもって、現在を語らんとすることになりかねない。ところが、いわゆる「近代」なるものが、遅れた時代のこととして断罪するこれ以前のさまざまな侵略や破壊のストーリーは、きちんとしらべてゆくと、しばしばそれは、その時代よりも後の思惑が生んだ「つくりごと」や自己正当化のための述作・いいわけであったり、もしくはとくに一神教の宗教家たちによる聖化のためのことさらな教説であったりする。歴史を率直に見れば、時代としての野蛮さは「近代」「現代」「現在」の方が圧倒的である。今をもってよしとするのは、今に生きるわたくしたちの“うぬぼれ”の類いかもしれない。
 そのいっぽう、かつて実際にあったことや近現代の現実をこえて、あまりにも「国民国家」的な幻想や言説がゆきわたってしまった結果、ほとんどはそうではなかった歴史が、現在の幾らかの国々において、内外にたいする擬態やブラフとして政治利用されたり、さらにはナショナリズム風のエモーショナルな利害・気分で色づけされてすっかり変身し、別の姿となりはてて、時には「踏絵」さえ求めたりする。ところが、そもそも歴史と現在を語るさい、共通して使われる「国家」「民族」「部族」といった基本用語そのものが、タームは同じでも実態においては、「近代」以前と以後では似て非その上なるものである。そのうえ、それらがさしていたものは、ことば・概念・実態のいずれにおいても、今やほとんど地崩れをおこしている。多分、わたくしたちは、輪郭のあきらかな説得力のある別の用語・概念をつくる必要がある。」

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これからの世界の行方を考える糧としての過去の歴史を把握しなおす。


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posted by Fukutake at 10:55| 日記