2020年01月08日

散歩胴(サンポドウ)

「木米と永翁」宮崎定市 中公新書 1988年

散歩
p161〜

 「散歩道と書けば誰しも、サンポミチと読んでしまうであろうが、この場合に限っては注文があって、是非サンポドウと読んでもらいたい。日本人は何でもドウが好きだ。ただおいしく頂ければそれでいいのに、茶道とくる。ゴリラのような怪力でなければ優勝できない取っ組み合いが柔道であり、花も実もない枯れ木のオブジェが華道と名乗る。書道、剣道、弓道、武士道から、下は餓鬼道、極道まである。毎日欠かさず出かける散歩に、ドウのない筈はない。
 定年で退官して一番有り難いのは、散歩する時間ができたことである。振りかえってみると、定年前の十年間ほどは本当に忙しかった。つい近所でも、ただブラブラ歩くという余裕がなく、大学へ往復する道筋を除く外は、どこにどんな新しい家が建ったかも知らないで過ごした。それがいま突然、全く自由な時間ができてきたのだ。時間割のない空白の時間が、無限に前方に開けてきたような気持ちである。これでは歩かねば損だ。
 散歩には何の目的もない。もう大学での授業の内容を考えながらあくる必要はなくなった。哲学者でないから瞑想に耽る義務のないし、文学者でないから、匿れた美しさなどを無理に見付け出して感激に浸る義務もない。サンドイッチマンのように、ただただ歩いていたいのが理想である。しかし実際はなかなか左様には参らない。無念無想の態勢がつい崩れて、妄想がはびこってくる。それもしばしば不快を伴ってだ。そんな散歩なら、やめてしまえばよさそうなものだが、それでは散歩道にはならぬ。損得お構いなしに、散歩のための散歩するのが散歩道である。
 それでも強いて何か取り柄はないか、と聞かれれば、大いにある。それはだいいち腹の減ることである。道端の低い店先の曇ったガラス箱の中に並んでいる駄菓子が、行きがけにはいかにもまずそうに見えたのが、帰りしなに見ると、どれもこれもうまそうに見えてくる。
 都市の良さは歩いてみるとわかる。世界でいちばんいいと思ったのは、やっぱりパリだ。シャンゼリゼーの鬱蒼たる林がある。その裏手へまわると、人影まばらな花園へ出る。若い学生たちの熱気でむんむん人いきれのするサンミッシェルの通りから、一歩外へ出れば、墓場のような森閑としたオプセルバトワルの大並木道がある。フランス人は、それを自然と人工の見事な調和という言葉で自慢するのが癖だが、まったくその通りだ。」


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小子にはパリ、セーヌ川沿いの道を散策したよい思い出がある。


posted by Fukutake at 12:38| 日記