2019年11月01日

登校拒否、引きこもり

「いま問いなおす 登校拒否」−これからの見方と対応− 頼藤和寛 
 人文書院 1994年
(その1)

p33〜
 「…ごくごく常識的に考えて、いったい登校拒否は一種の「さぼり」なのであろうか、はたまた現代の問題多き教育制度の犠牲者となるほど「純粋」なのであろうか。
 この答えを出す前に、自分が趣味としてどのように見たいか、あるいはどのように解釈すればマスコミ受け・大衆受けするか、など卑しいことを考えてはならない。まず公平に見て、「そのどちらでもある」とするのが至当である。
… 登校拒否児は、その大半が横着であると同時に、傷つきやすくもある。

 登校拒否には、何かふだんの常識では割り切れないような側面が含まれているのである。ふだんの常識としては、「本来行くべきところに行かないのはサボりである。」あるいは「それだけに、相当深い事情があるに違いない」のいずれかでなければ収まりがわるい。どちらかに割り切りたい。例えば旧ソ連は「悪の帝国」だったのか「人類の希望」だったのか。故カラヤンは「クラシック音楽の救世主」だったのか「ただのショー・マン」だったのか。人間の心理としては、天秤をどちらかに傾けてしまわないと落ち着かないようなところがある。「そのどちらの側面も包含していた」なんぞと言われると、煮え切らない思いがする。
 だがどうしても、プロとアンチが、右と左に分かれてしまう。特に、世の中のものごとが全て白か黒かのいずれかでないと困るような人々は、そうである。一旦どちらかに決めてしまうと、その後は、目の前に不都合な材料が現れても、無視して遠ざけてしまう。
 実際には中間の灰色が圧倒的に多く、しかも黒に近い灰色や、ほとんど白のような灰色までさまざまだし、それどころか、黒と灰色に少し白が混じったブチみたいなケースもある。
 これは登校拒否に限らない、しかし本稿では登校拒否に限っておく。
 本人の素質が主因のようなケース、担任教諭の対応が拙劣なケース、いじめや恐喝への正当防衛策のようなケース、わがままや浮き上がりのせいでスネているケース、対人緊張で内臓が悲鳴をあげているケース、……その他もろもろ「皆入り混みの浮世風呂」というのが登校拒否の実態なのである。

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posted by Fukutake at 18:09| 日記