2019年09月13日

体と心

「左足をとりもどすまで」オリバー・サックス 金澤泰子訳
 晶文社 1994年

(ノルウェイの山中で転落事故にあい、大ケガを負った脳神経科医サックス。手術により傷は癒えたが、なぜか左足が自分のものであると感じられない。神経の障害のため、脳のなかの左足のイメージが失われてしまったのだ。)

P153〜
 「… 目がさめたとき、私は左足を曲げたいという奇妙な衝動を感じた。と、その瞬間、私は足を曲げていたではないか! 足を曲げるには大腿四頭筋全体を積極的に収縮させる必要がある。これまでは考えることすらできない、不可能な動作だった。しかしそのときは、考えも動きもあっというまだった。思いつきも、準備も、熟考もない。「試してみた」わけでもない。衝動を感じたと思うまもなく、即座に行動していた。足を動かすという考え(観念)、衝動、行為が一度におこった。どれが先とはいえない。すべてが同時だった。急に足の動かしかたを、「思いだし」、その瞬間に動かしていた、やむにやまれぬ動作だった。まったく突然に、内在する力で自然におきた、予期せぬ出来事だったのである。…
 しかし、数秒後にはまたできなくなり、その日はずっとだめだった。動作をする能力、動作についての観念、動こうとする衝動はふいにおこり、また消えてしまう。もう少しで思い出せそうな顔、名前やメロディーが急に消えてしまうようなものだった。…
 「観念運動」ということばがふとこころにうかんできた。今回の閃光のようなぴくつきは、無意識のうちに自然におこったものなのだが、まちがいなく本質的かつ根本的に「私」とかかわっていた。たんに「筋肉が痙攣している」のではなく、「私」がなにかを「思いだして」いたのである。それは、腱が切れて以来失われていた調和、心とからだの真の調和を一瞬のうちに例証していたのである。
 私は執刀医のことばを思い出した。「つながりが切れてしまったのです。ですからもういちど結びあわせます。」まったく解剖学的で彼が使ったことばには、いま思うに、より深い意味があったのだ。つながりを断たれたものは、神経と筋肉だけではなかったのである。心とからだが本来持っている調和も断たれたのである。肉体も精神もそれぞれ引き裂かれ、そのうえ、たがいに引き離されたのである。「肉体」と「精神」はそれらが一体であるかぎり、感じることができたのだが、両者がつながりを失ったとき無感覚になった。…観念運動の閃光のうちに、再接続がおこった。それは肉体と精神の急激な痙攣性の再統合だったのである。」

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肉体と精神のつながり!
posted by Fukutake at 13:38| 日記