2019年08月16日

他(ひと)

「障子の中」 夏目漱石 岩波文庫 

他人との交渉
p94〜

 「私は何でも他(ひと)のいう事を真に受けて、凡(すべ)て正面から彼らの言語動作を解釈すべきものだろうか。もし私が持って生まれたこの単純な性情に自己を託して顧みないとすると、時々飛んでもない人から騙される事があるだろう。その結果陰で馬鹿にされたり、冷評(ひや)かされたりする。極端な場合には、自分の面前でさえ忍ぶべからざる侮辱を受けないとも限らない。
 それでは他(ひと)はみな擦れ枯らしの嘘吐ばかりと思って、始めから相手の言葉に耳も借さず、心も傾けず、或時はその裏面に潜んでいるらしい反対の意味だけを胸に収めて、それで賢い人だと自分を批評し、また其所(そこ)に安住の地を見出し得るだろうか。そうすると私は人を誤解しないとも限らない。その上おそるべき過失を犯す覚悟を、初手から仮定して掛からなければならない。或時は必然の結果として、罪のない他(ひと)を侮辱する位の厚顔を準備して置かなければ、事が困難になる。…
 私の僻(ひがみ)を別にして、私は過去において、多くの人から馬鹿にされたという苦い記憶を有(も)っている。同時に先方のいう事やすることを、わざと平たく取らずに、暗にその人の品性に恥を掻かしたと同じような解釈をした経験も沢山ありはしまいかと思う。
 他(ひと)に対する私の態度はまず今までの私の経験から来る。それから前後の関係と四囲の状況から出る。最後に、曖昧な言葉ではあるが、私が天から授かった直覚が何分か働く。そうして、相手に馬鹿にされたり、また相手を馬鹿にしたり、稀に相手に彼相当な待遇を与えたりしている。
 しかし今までの経験というものは、広いようで、その実甚だ狭い。ある社会の一部分で、何度となく繰り返された経験を、他の一部分へ持って行くと、まるで通用しない事が多い。前後の関係とか四囲の状況とかいったところで、千差万別なのだから、その応用の区域が限られているばかりか、その実千差万別に思慮を廻らさなければ役に立たなくなる。しかもそれを廻らす時間も、材料も充分給与されていない場合が多い。
 それで私はともすると事実あるのだか、またないのだか解らない、極めてあやふやな自分の直覚というものを上位に置いて、他(ひと)を判断したくなる。そうして、私の直覚が果たして当たったか当たらないか、要するに客観的事実によって、それを確かめる機会を有たない事が多い。其所にまた私の疑いが終始靄のようにかかって、私の心を苦しめている。」


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神経病にもなります。
 
posted by Fukutake at 13:05| 日記