2019年08月13日

悪者!

「巻頭随筆」 田中美知太郎 文藝春秋 昭和五十九年

<悪者さがし>(文藝春秋- 昭和五十二年一月号)

p281〜
 「何か事件があって、筋が入りくんでわかりにくいようなとき、これを単純明快にとらえる方法として。まず悪者をさがして、万事をこの悪者の仕業とするやり方がある。子供たちが話の途中で、どれが悪者かを聞きたがるのも、それさえ教えてもらえば、話はずっとわかりやすくなるという気持ちがありからだろう。

 刑事コロンボというテレビ番組が人気を集めたことがあった。私の幼稚な素人考えを述べることが許されるなら、これが楽しめる見ものになったのは、次のようなことから来ているのではないだろうか。これは最初に犯人が誰であるかを教えてくれる。だからわたしたちは、犯人さがしの労をはぶいてもらうことになる。これは推理ものの楽しみを半減させるものとも考えられるが、実際はそうではなく、あらかじめ答えを知らされているために、かえってわたしたちは、推理の筋道を簡単明快に理解できて、頭がよくなったような錯覚さえあたえられる。しかも刑事の相手にする人物は、いずれも社会の上流に位するエリート、成功者なのであって、すぐれた知力をつかって、必死の防戦を試みるから、そこには知的レスリングの面白さが出てくる。…純粋に知的な格闘を見せてくれる。そしてあまり風采のあがらない一刑事が、綿密な証拠あつめをして、知力のすぐれた相手をやはり同じ知力を用いて追いつめ、ついに敗北を認めさせるのであるから、この勝負は一般市民を満足させることにもなる。それは世の強者、エリートに対するかれらの勝利として、一種の復讐の喜びを感じさせることにもなるだろう。
 しかしながら、これは犯罪者を追いつめるプロセスに重点がおかれていて、いわゆる悪人退治そのものが主眼になっていないようである。…つまり(犯人の)敗北には選挙に敗れた有力候補者とか、作戦に失敗した将軍のようなところがないでもない。つまり悲劇的なのである。しめっぽく、みじめったらしいところのないのが、本来の悲劇の味だからである。
 わたしがここで刑事コロンボを登場させたのは、ただ次のことのためだったのである。何かのきっかけで悪人を決めてしまうと、もうそれからは聞く耳もたぬというようなやり方ではなく、相手にも好きな武器を選んで戦うことを許し、あらゆる理由と事実を吟味して、堂々と勝負をした上で、はじめて断罪すべきであるということを、いくらかわかりやすくするためである。しかし現在のわが国には、知的格闘の相手になるような堂々たる悪人はまだいないのかもしれない。」

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某は本当に悪者か。
posted by Fukutake at 11:35| 日記