2019年08月09日

長老とは

「庶民の発見」 宮本常一 講談社学術文庫 1987年

 p112〜 村の本当の相談相手

 「…村の女たちの品定めは実に日常たえずおこなわれている。男同士の世界とはまったく別で、大半は人のうわさであり、村のトピックである。しかしきいていて、ただ興味本位ではなしにちゃんと批判があることに感心する。このようにして、女は村のすみずみまで知っている。それを知らない人には村は住みにくいし、どこまでいっても感情のとけあうことはない。
 かつて秋田の山村で体験したことだが、三里ばかりの谷に百八十戸の農家が散在しているところで、ある家の主婦がその一軒一軒のドブロクの味の特徴を知っているのに驚いた。自らのんでためしたことはないはずである。いったいどうしてそれを知ったのであろうかと、いまも不思議に思っている。
 しかもそこまで知っていなと、村の円満なつきあいはできないものだという。そして、他人を非難したり批判するような場合には、通常相手の名を露骨にいわない。シコナ(醜名)というか、独得なよび方をする。そして会話の中にも多くの隠語がはいり、また比喩がはいる。これは全国共通といっていい。そのことゆえに他人を非難できたので、面と向かって相手をせめることも少なかったが、かげで物いう場合にも悪意にみちたものではなかった。そうしたところに、ささやかながら村の散文的な文学が存在した。家々のシコナは各地とも盛んに用いられている。
 こうした女たちのはなしはたいてい村の長老たちに通じている。自分の亭主には話さなくてもそういう人には話す。なぜなら、そういう人が真に困った時の相談相手になってくれるからである。
 そういうことによって村の統制はとれていたのである。土佐の山中で逢った老人が「人間の悪いところばかりあばいていたのでは村はよくならん。何もかも知っておって、しかも人を傷つけぬように気をつけねば村のくらしはうまくゆかぬものだ…」とはなしてくれたことがあったが、味わうべき言葉である。しかも、こうした長老と目される人は決して大家の旦那ではない。百姓女たちの相手になる程度の家の老人で、ともに働き、ともに苦しんできた仲間である。
それは村の政治の外に立っている。井戸端会議はたいていそういうところへ直結している。」

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女が村の要
posted by Fukutake at 09:02| 日記