2019年06月13日

死は幸福

「ソクラテスの弁明・クリトン」 プラトン 著  久保 勉 訳
 岩波文庫

p57〜

 「…次のように考えて見ても、死は一種の幸福であるという希望には有力な理由があることが分かるであろう。けだし死は次の二つの中のいずれかでなければならない、すなわち死ぬとは全然たる虚無に帰することを意味し、また死者は何ものについても何らの感覚を持たないか、それとも、人の言う如く、それは一種の更生であり、この世からあの世への霊魂の移転であるか。またもしそれがすべての感覚の消失であり、夢一つさえ見ない眠りに等しいものならば、死は驚嘆すべき利得といえるであろう。というのは、思うに、もし人が夢ひとつさえ見ないほど熟睡した夜を選び出して、これをその生涯中の他の多くの夜や日と比較して見て、そうして熟考の後、その生涯に幾日幾夜さをこの一夜よりもさらに好くさらに快く過ごしたかを自白しなければならないとすればー思うに、単に普通人のみならずペルシャ大王といえども、それは他の日と夜とを比べて容易に数え得るほどしかないことを発見するであろうからである。それで死がはたしてかくの如きものであるならば、私はこれを一つの利得であるといおう。その時永遠はただの一夜よりも長くは見えまいから。これに反して死はこの世からあの世への遍歴の一種であって、また人の言う通りに実際すべての死者がそこに住んでいるのならば、裁判官諸君よ、これより大なる幸福があり得るであろうか。実際、この世で裁判官と称する人達から遁れて冥府(ハデス)に到り、そこで裁判に従事しているといわれている真誠の裁判官を、ミノスやラダマンテュスやアイヤコスや取りプトレモスや、その他その一生を正しく送った半神達を、見出したとすれば、この遍歴は無価値だと言えるだろうか。或いはまたオルフェウスやムサイオスやヘシオドスやホメロスなどとそこで交わるためには、諸君の多くはどれほど高い代価をも甘んじて払うだろう。少なくとも私は幾度死んでも構わない。もしこれが本当であるならば。
(中略)
 しかし、裁判官諸君よ、諸君もまた楽しき希望をもって死に面し、そうしてこの一事をこそ真理と認めることが必要である。− それは、善人に対しては生前にも死後にもいかなる禍害も起こり得ないこと、また神々も決して彼の事を忘れることがないということである。今私に降りかかって来たことなども決して偶然の仕業ではない。私はむしろ今死んで人生の困苦を遁れる方が明らかに自分のためによかったのであると思う。それだからこそ例に徴もどこでも私に警告を与えなかったのである。」

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今が死すべき時
posted by Fukutake at 10:10| 日記