2019年04月24日

秀頼の朝鮮出兵

「大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか」 しばやん
 文芸社 2019年 
(その1)

 朝鮮出兵について p140〜

 「…秀吉軍は文禄元年(一五九二年)四月十三日に釜山攻撃開始後、わずか二十日の五月三日に首都漢城(現在のソウル)を陥落させている。李氏朝鮮の公式記録を読むと、多くの朝鮮民衆が秀吉軍に加勢したり、日本軍が入城する前に王宮を焼き払ったことが記されている。教科書などでは、秀吉軍が「朝鮮民衆の激しい抵抗」にあったとよく解説されるのだが、李氏朝鮮側の記録によれば、民衆の激しい抵抗にあったのはむしろ宣祖王の方であったのである。

  乱民先ズ掌隷院・形曹ヲ焚ク。公私奴婢ノ文籍在ル所ヲ以テナリ。又内□ 庫ニ入リテ金帛ヲ愴掠シ、景福宮・昌慶宮ヲ焚キ、一モ遺スナシ。(『宣祖修正実録 巻二六』宣祖二十五年四月三十日条)

 秀吉は二度にわたる出兵で、朝鮮軍・明軍を圧倒したのである。しかしながら慶長三年(一五九八年)に秀吉が死亡し、それ以降家康等の有力大名間の権力を巡る対立が顕在化したために、対外戦争を継続できる状況ではなくなり、帰国命令が発せられている。…日本軍が強かったことは明の公式記録である『明史』を読めば分かる。
   
   関白秀吉が朝鮮に侵入してから前後七年間に中国と朝鮮の失った士卒は数十万、費やした兵糧は数百万斤にのぼったが、明の朝廷と朝鮮の側には最後まで勝算はなかった。たまたま関白が死んだために、兵乱はようやくおさまったのである。(藤堂明保他訳『倭国伝』講談社学術文庫 p435)」

------
教科書はなぜ史実を伝えない?

筆者の「しばやん」は小子の大学時代の畏友である。同書は長年にわたる筆者の万巻の資料を渉猟した結果に基づいたもので、俗説・通説を覆す瞠目すべき歴史論が展開されている。明治以降特に終戦後の悪意に満ちまた歪んだわが国の歴史解釈に対し、公平な視点からその正しい姿を蘇らせた近年稀に見る良書だと思う。
posted by Fukutake at 09:12| 日記