2018年11月20日

歴史の判断を待つ

「共同研究 パル判決書(下)」 東京裁判研究会編 
  講談社学術文庫 1984年
(その10)

パル判決書の締めくくり

p741〜

 「現在、国際世界がすごしつつあるような艱難辛苦の時代においては、あらゆる弊害の源泉として虚偽の原因を指摘し、それによって、その弊害がすべてこれらの原因に帰すると説得することによって、人心を誤らせることはきわめて容易であることは、実に、だれしも経験いているところである。復讐の手段に、害悪の性質からみて、それ以外に解決はない、という外貌を与えて、この復讐の手段を大衆の耳にささやくには、現在ほど適当な時期はない。いずれにしても、司法裁判所たるものは、かような妄想に手をかすべきではないのである。
 たんに、執念深い報復の追跡を長引かせるために、正義の名に訴えることは、許されるべきではない。世界は真に、寛大な雅量と理解ある慈悲心とを必要としている。純粋な憂慮に満ちた心に生ずる真の問題は「人類が急速に成長して、文明と悲惨との競争に勝つことができるであろうか」ということなのである。
 …
 われわれは「これらの大問題は、一九一四年以降われわれを悩ました問題が、もっと複雑になって再現したものにすぎない、という考えで、この問題と取り組む」ことをやめなければならない。「原子爆弾の意味するもの」をして、「地上の各人民が平和と正義のなかに生きうる方法を、思慮ある人々に探求させることを怠らせてはならない。がしかし、敗戦国の指導者らの裁判とその処罰のなかに示された一連の行動には、上の原子爆弾の意味するものをよく認識しているというしるしは、見られないのである」。「憎むべき敵の指導者の裁判を注視することによって起こされた、熱狂した感情は、世界連合の根本条件を考慮する余地を、ほとんど残さないものである。…」。「一つの些細なこと、すなわち、裁判があまり強調されることによって、平和の真の条件にたいする民衆の理解は増進することなく、むしろかえって混乱させられるであろう」。

 このようにいわれたのも、おそらく正しいであろう。
 「この恐怖をもたらした疑惑と恐れ、無知と貪欲を克服」する道を発見するために、平和を望む大衆が、費やそうとする尊い、わずかな思いを、裁判が使い果たしてしまうことは許されるべきではない。「感情的な一般論の言葉を用いた検察側の報復的な演説口調の主張は、教育的というよりは、むしろ興行的なものであった」。
 おそらく敗戦国の指導者だけが責任があったのではないという可能性を、本裁判所は、全然無視してはならない。指導者の罪はたんに、おそらく、妄想にもとづいたかれらの誤解にすぎなかったかもしれない。かような妄想は、自己中心のものにすぎなかったかもしれない。そのような自己中心の妄想であるとしても、かような妄想はいたるところの人心に深く染み込んだものであるという事実を、看過することはできない。まさにつぎの言葉のとおりである。
 『時が、熱狂と、偏見をやわらげた暁には、また理性が、虚偽からその仮面を剥ぎとったあかつきには、そのときにこそ、正義の女神はその秤を平衡に保ちながら過去の賞罰の多くに、その所を変えることを要求するであろう』。」

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真に裁かれるべきは、米国など白人連合国群であった。
(これにて上下2巻にわたった本書の抜粋(全11回)は終わりです)
posted by Fukutake at 08:29| 日記