2018年08月29日

死ぬ間際の幸せ

「生きる意味への問い V.E.フランクルをめぐって」 山田 邦男 著
 佼成出版社 1999年 (その2)

253p〜

 「『いよいよお終いだ!』誰かが頭の上で言った。彼はこの言葉を聞いて、それを心の中で繰り返した。『もう死はおしまいだ』と彼は自分で自分に言い聞かした。『もう死はなくなったのだ』
 彼は息を吸い込んだが、それも途中で消えて、ぐっと身を伸ばしたかと思うと、そのまま死んでしまった。」(『イワン・イリッチの死』米川正夫訳)

 この人物についてフランクルは次のように述べている。
 「…この人間は彼の生命の最後の時間になお、自分自身を遥かに超えて成熟し、内的な偉大さに達するのであり、それは逆行的に彼の今迄の全生活をーそれが一見無駄のようなものであるにもかかわらずー或る意味に充ちたものにまで昂めるのである。生命はその究極の意味を…死の中にもうることができ…、生命は失敗においてすら充たされうるのである。」(『死と愛』)

 この人物は、その人生の最期の瞬間いおいて、かの「人生の意味につての問いの観点の転回」を成し遂げたと言うことができるであろう。それまでの彼の人生は、家族や職場の同僚などの周囲の人たちすべて自分の栄達のためという観点から見てきたが、最期の瞬間になって、そうした生き方が「すべて間違いかもしれない」と気づき、「これはこの人たちを苦しめている」と考えるようになる。そのきっかけとなったものは、意識が朦朧とする中で、「誰かが自分の手に接吻しているのを感じた」ことであった。その刹那、彼のそれまでの自己中心的なあり方が他者から破られたのである。そのとき、彼は子どもや妻になり、彼らの側から自分を見たのである。
 もっとも、彼は一挙にそういう考えに至ったのではなく、それまでの彼は痛みのためにのたうちまわって苦しみ、家人を憎み、また運命を恨んで自暴自棄になっていた。しかしそういう苦悩に耐えることによって、ついにかの転回、すなわち自分から世界を見るのではなく、世界から自分を見る、という転回がなされたのである。自己の死、つまり世界から生まれた自己がふたたび世界に還ろうとするとき、自己を放下して、自己を世界から受け取るという視点が切り開かれたのである。自己を放下したとき、そこにはもはや死はない。彼は「ああ、そうだったのか!」と叫ぶ。そして死の代わりに、そこにあるのは世界いっぱいの「光」である。彼はまた叫ぶ、「なんという喜びだろう!」と。

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「自己を世界から受け取る!」
posted by Fukutake at 09:23| 日記