2018年07月19日

生きる意味

「<生きる意味>を求めて」 V.E.フランクル  
 諸富祥彦 訳  春秋社 1999年

52p〜

 「何かをするという可能性には、「機が熟する」という特質がある。つまり、ある状況に備わっているが、また形になって現れないその意味を満たす機会を、もし私たちが掴みそこねれば、その機会は失われ、永久の彼方へと通り過ぎていってしまうのである。
 それでも、「その時だけのはかないもの」とか「その時限りの一時的なもの」とは、単にその可能性。つまり現実に何かをする機会がそうだというのであって、可能性を実現した結果まで、「その時限りのはかないもの」だと言っているのではない。ある状況が私たちに提供してくれた可能性を、いったん現実のものにしてしまえば、そしてまたその状況が持っていた意味を、私たちが満たしてしまいさえすれば、ただの可能性に鹿すぎなかったものを、私たちは一つの揺るぎない現実に転換することができるのである。永遠に。だから、その時だけのはかないものであることを理由に侮辱されるいわれは、もはやない。

 私たちは、いわばその時限りのその瞬間の可能性を、過去の現実に変えることで救うことができるのである。過去へ無事に引き渡し、過去の中でそっと根をおろしたものを、私たちから奪うことはできないからである。誰であろうとも。そしてまた何があろうとも。過去の中では、償いようのない形で、あるいは取り戻せないようなかたちで、消えてなくなるものなど何もない。すべては永久に保存される。
 普通は、確かに人々は、「その時だけのもの」を刈り取ってしまった後の田畑の方だけを見ている。人生の収穫期に刈り取られた、作物でいっぱいになっている穀倉の方を見てはいない。積み上げてきた行為の数々、創り出してきた成果の数々、愛された愛の数々、勇気をもって乗り越えてきた悲しみの数々……そうした「作物」を見てはいないのである。この意味で、ヨブ記の中で次のように言われていたものが理解できる。「あたかも麦の穂が、時が来て実るように、あなたは高齢に達して墓に入る」(七の二六)と。

 意味とはユニークなものである。だから絶えず変化し続けるが、決してなくなってしまうことはない。意味のない人生など存在しないのである。」


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生きて何かをするべきことをする=意味
posted by Fukutake at 09:03| 日記