2018年04月26日

「同じ」と「違う」

「遺言」 養老孟司 新潮新書 2017
 
「おわりに」より

181p~

  「…強いフェミニズムは、感覚で捉えられる男女の「違い」を無視し、なにがなんでも男女を「同じ」にしようとする。「病」というしかない。「同じにする」がどんどん強くなって、信仰の域に達する。「病」というしかない。それがアメリカの「リベラルという病」だ、ということになる。
 
 「同じにする」ことが間違っているのではない。ただし感覚は「違う」という。その二つが対立するのは、そう「見える」だけで、そこには段差があるのだから、両者を並べることはできない。まずそのこと自体を「意識」したらどうですか。それがいわば私の拙い提案である。

 さすがに「違い」を無視することは完全にはできない。だから、「同じにする」論者も単純に「正しい」とは言えず、ポリティカル・コレクトネスなどという言葉を創らなければならなくなる。トランプを代表とする側が、その無理を指摘する。そんな無理をしなくたって、意識は「同じ」だといい、感覚は「違う」という。その両者を矛盾として抱えているのは、あなた自身ですよ。それを素直に認めたらどうですか。私はそう言いたいだけである。

 それはじつは矛盾ではない。右に述べたように、両者は「階層が違う」からである。ただしそこで意識、つまり「同じ」が上だとするのが、階層的にものを考える時の問題である。より抽象化されたものが「上」だとすれば、「同じ」が上になる。学者が議論すれば、ひとりでにそうなる。なぜなら学者とは「より抽象的」に考えるものだからである。だから神学の世界から自然科学が発生した。中世の神学が、抽象としていわば行き過ぎたから、近代の自然科学がそれを是正することになった。その意味で自然科学は、「感覚の復権」だが、科学者自身がいまや階層的な世界に取り込まれてしまったから、実験は感覚の復権だなどとは到底言えなくなった。いまでは実験室そのものが「意識の世界」に
変わってしまった。だからマンガに描かれる科学の実験室は同じようなビーカーを並べて白衣を着た人がいて、どれも「同じ」に見える。私の議論がややこしいのではない。実状がややこしいのである。」

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感覚と意識!
posted by Fukutake at 13:16| 日記