2018年03月26日

忘れられる時代の風潮

「中国文明の歴史 11」 中国のめざめ  宮崎 定一
 中公文庫 2000年

(同書 解説より抜粋)370p〜

 (月報「概説と同時代史」より)
 「人間も定年すぎまで生きると、若い年代との間にずれが生ずるのはやむをえない。私の受持ちの第十一巻は日露戦争の直後からであるが、私の幼年の記憶はそのあたりまで遡る。なんでも戦勝祝賀の提灯行列が隣りの町にあって、私はそこで打ち上げられる花火を自分の家の窓から眺めていた淡い記憶がある。だからこのころからは私にとっての現代史なのであるが、近ごろ大学を出たぐらいの人たちには、何だか遠い有史以前の話のような気がして、現代史とは思えないであろう。そこで私にとっては同じ現代史なのであるが、その古い方の部分を特に私の同時代史という名で呼ぶことにする。
 どうせ私の同時代史を書くからには、私は努めて私の皮膚で感じとった当時の雰囲気を後世に伝えたいと思う。ところがこれも、何でもないように見えて、実は案外むずかしいのである。こちらにはわかりきったことでも、少し時代が後の人にはたちまち分からなくなってしまう。人はえてして自分の時代を基準にして過去のことを遡って類推したがるもので、いつもそこにとんでもない誤解が生じ易い。今度の戦争などでもそうだが、戦争は確かに悪い、だから戦争を起こしたのは確かに悪かった。しかし、戦争が起こるまでの世界の動きがどんなものであったか。若い年代の人たちの言っていることを聞いていると、甘い夢のような話がときどき飛び出してくる。他事はともかく、日本といえども、何も好んで戦争に突入したのでないことは確かである。戦前の日本はあらゆる方面で窒息しそうな、締めつけられた姿勢にあったことをどこまで皆が知っているのだろうか。」
 (月報の締めくくり)
 「同時代史を書くには、過ぎ去った時期のムードを批判すると同時に、現時のムードに対しても厳正な批判が必要だ。歴史家は何ものにも溺れてはならない。」
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至言ここに至る。
posted by Fukutake at 08:04| 日記