2018年03月01日

死ぬためには生きなくてはならない

「半分生きて、半分死んでいる」 養老孟司 PHP新書 2018年

半分死んでいる

 166p〜
 「先月の土曜日に久しぶりに東京農業大学に行った。ここは昆虫学研究室があるので、たまに勉強に行く。一服しようと思って屋外の喫煙場所に向かったら、学生が寄ってきて「養老さんじゃないですか、もう死んだと思っていました」という。いくら若者でも、それじゃ少しひどいと思ったか、「もう歴史上の人物ですよ」とつ加えてくれましたね。
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 歳を取ると、むしろ宗教に近づく。これは実際にそうだと思う。そうでないと、なんだか生臭い感じがする。この世での要件はあらかた済んでしまったのだから、あとは後生を願うばかり。欧州の墓を巡ると、時に墓碑に写真が埋め込まれている。若くして亡くなった人であることが多い。美しいときのままに残しておきたいという家族の気持ちがよくわかる。それと同時に、なんだか生臭いなあと思う。日本の墓地の良さは、その意味で浮世離れしているところかもしれない。あっちはあっち、こっちはこっちだから、写真なんかをお墓に貼り込もうという気がない。さっぱりと切れている。
 若者がときどき亡くなる。家族がやりきれないのは、よくわかるような気がする。だからあれこれ言ってみたりするのかもしれないが、亡くなった人を戻すことはできない。冷たいようだが、それは誰でも知っている。親しい人の別離は痛み、傷である。脳科学はそうした別れと身体の外傷では、苦痛に関しての脳の同じ場所が働くことを示している。子どもと死に別れた親、恋人と別れた人は、脳から見れば、大きな傷を負ったときと痛みは同じである。それは脳を調べなくたってよくわかっているから、言葉がそこでは共通している。別離はまさに心の痛みを伴う。
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 同じ傷でも、耐えられる人と耐えられない人がいる。痛がる人と痛がらない人がいる。その二つがあるということは、進化の過程で、そのどちらにも、それなりの意味があったということであろう。戦前から戦中なら、身体の痛みは徹底的に我慢しろと教えた。戦後は徹底的に痛みは避けよ、与えるな、と教えている。どちらも極端であろう。実情はその中間に落ちる。私は半分生きているが、半分はもう死んでいるのである。」


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どちらつかずが人生だ。
posted by Fukutake at 13:11| 日記