2018年02月26日

田舎での暮らし

「聞書 忘れえぬ歳月(東日本編)」 宮本 常一 著(田村善次郎 編)

八坂書房 2012年

「秋田県仙北郡西木村戸沢」で村の古老から聞き取り
92p〜

 「…五年生六年生は宮田へいったが高等科へ行こうとすれば松葉まで歩かねばならなかった。高等三年は角館にあった。角館の高等三年へ通ったのは門脇宇一朗さん一人であった。大ていの子供は宮田までいってそれでおしまいだった。松葉にゆくと下宿しなければならなかった。宮田に通ってさえ、授業が終わって帰って来ると暗くなったものである。宮田に通うにも通学用の草履は、みな自分で作った。冬はそれにカンジキをつけて雪の中をあるいた。細い道をあるかねばならぬので大変であった。学校へ通うのがそんな状態だから、ここから他所へ出ていくのはもっと大変であった。村の家をふやさなかったこともよくわかる。凶作などがあると山の中の不便な村は助けてくれるものはないのだから自分たちで身を守らなければならなかった。
 だから一七軒時代にはどこの家も一町歩以上の水田を作っていた。私の家は昔から一町三反作っており、今もそのままである。とにかく、大正時代までは土地を売る者は少なかった。他所に稼ぎに出るようになって少しずつ耕地を減らしていった。そうしないと出稼ぎに出られないからである。したがって、この土地で百姓を主にしている家は逆に耕地を増やしている。門脇宇一朗さんの家は今戸沢で一番多く作付けしている。
 農業以外の仕事がふえて来て、それぞれの家の耕地面積がまちまちになって来た。今は土地を持たなくても生活ができるようになった。そして、土地の少ないものはどんどん村をすてて出ていくようになった。しかし、昔からの一七軒は今もしっかりこの土地におちついているといっていいだろう。
 しかし、先祖からの財産を持ちつたえるということは容易なことではなかった。この土地は昔は凶作が多かった。私が六〜七歳の頃であったが稲が実らず、困ったことがあった。そこで父は大鳥鉱山へ稼ぎにいった。凶作があると皆稼ぎに出たものである。その年は米をついても白米にすることができなかった。くだけてしまうからである。その米に大根の乾葉をこまかに切って入れてカテ飯にしてたべた。
 とにかく食う物の不足する年は多かったが、昭和二十一年〜二十二年頃は格別ひどかった。米を売ることも買うこともできず、みな供出にとられてしまって、田植えの時の米がなかった。田植えのときはたくさん食べるので田植米といって用意しておくのだが、それがない上に配給もしてくれなくて本当に困った。そこで、どの家もワラビの根をほってワラビ粉をとってたべた。一番辛いことであった。塩気がなくて皆困り、醤油も作れなかった。ニガリをたべて胃病になった人もあったし、栄養不足になって死に絶えた一家があった。」

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ついこの間の田舎の暮らし
posted by Fukutake at 08:20| 日記