2017年08月12日

「史記」の面白さ

「中国に学ぶ」 宮崎 市定  
 中公文庫 昭和六十一年


152P〜
 「私は『史記』を読むにも商売で読むから、つい批判的になって、読書三昧の無我の境地にははいれない。これは純粋な読書精神としてはむしろ邪道である。しかしさすがにこのくらいのすぐれた古典になると、著者及び著者を生んだ社会が把握した豊かな人生経験が書かれていて、二千余年経た今日でも、はっとさせられるような名文句に出会う。 
 春秋の末期、楚の伍子胥が平王に父兄を殺されて呉にのがれ、呉の兵を率いて楚を破り、平王の墓をあばいて屍を引き出し、むち打つこと三百にして怨みに報いたが、ある人がこれに対し、当時ことわざ引いて「人衆(おお)きときは、天に勝つ。天定まりて能く人に勝つ」と言った。私の脳裏に残っていて、最も頻繁に思い出されるのは『史記』のこの言葉である。
 これはもっとも短くつづめて言えば、無理は長続きはせぬ、という意味である。昨年、学園紛争のたけなわなるおり、私が数年前まで勤めていた京都大学にもゲバ学生の横行が見られた。教室を封鎖したり、教授をののしったり、百鬼夜行のありさまであった。その時も私はこの言葉を思い浮かべた。正に人多き時は天にも勝つのである。しかしこんな無理なことはいつまでも続くはずはない。私はそう言って元の同僚たちを励ました。そして心にもない妥協をしたりして、節操を曲げ給うなと忠告した。
 私自身の場合もそうである。学界という所も意外にきたないもので、多数をたのんで学問以外のことで悪口をいい、正しい学説を排撃するような言葉の暴力がしばしば行われる。しかし私は、学問上では多数決は真っ平ご免である。これも人多い時は天に勝つかも知れぬ。しかしやがて時間が正しい解決をつけてくれる。そう信じて妥協したりしない。
 愛書家として、読書家として『史記』を読むなら、このように効能を求めて利用するのも一法である。ただしそれを歴史として、史記を読むなら、かえって私がいつも商売として読んでいる邪道的な、あらさがし的な立場の方がむしろ正しいであろうことを最後に付け加えておきたい。」

「史記」(初出「信濃毎日新聞」昭和四十五年七月二二日)

posted by Fukutake at 16:37| 日記