2017年04月17日

人間の限界

「生物学の内と外」養老孟司x池田清彦 対談 
『現代思想 2012 8月号』  vol.40-10より抜粋

59p〜

 養老「…学問をやるときに科学者が大前提にしているのは、「自分の外に客観的な世界があって、その秩序や法則を第三者として見ている」ということなんだけど。どこまでいってもやはり実際に見ているのは自分なんだよね。それは物理学に典型的に見られて、要するに観察者を消しているということなんだけど、しかしそうやって素粒子でやってきた結果がハイゼンベルグの不確定性原理だし、おそらくあそこでもう一度観測者が出てきてしまうってことでしょう。あそこまで行くと僕には、やはりああいったタイプの科学は行くところまでいってしまった感じがする。つまり、観測者側の脳の限度に来たということだから。「世界がそうなっているのだ」と考えることと、「こちらの脳の限界が来た」と考えることはある意味では同じことでしょう。そもそも人間は素粒子みたいなものを見るように進化してきていないんだもの。
 例えば『銃・病原菌・鉄』(草思社、2000年)で有名なジャレッド・ダイアモンドという生物学者はもともと極楽鳥の分類をやっていた。彼は専門知識をもってニューギニアの鳥を生物学的に分類し、現地に赴いたのだけれど、その結果何に一番驚いたかといえば、ニューギニアの原住民が、一種を除いてあとは彼と全く同じように分類して名前をつけていたことだったんだよね。ダイアモンドはこれが一体何を意味するのかについては言及していないし、ただそういった不思議で面白いことがあったとだけ書いている。でも実は、専門的な見地でもって分類した人と住民の分類が、結論として同じだったというこの事実は、自然に対する人間の目の認識能力の高さを示しているわけです。
 嘘だと思うかもしれないけれど、普通はきちんと計測したり遺伝子を調べることでやっと違いがわかると思うでしょう。でも、原住民でもわかるものはわかる。ムシの分類をするときにもよく言うことだけど、何かが一割違えば人間の目にはわかる。例えば縦横比が10:9だったりすると、これは正方形じゃないとぱっと判断できる。それで今度、正方形か長方形かよくわからない場合は丁寧に計ってみるのだけど、所詮見てわからないものは丁寧に計ったところで結局わからないのだと、僕は経験的に思っている。いくら計測の精度を上げてみてもやはりわからないんだよ。ということは、これは人間の見る目がやはり限界に来ているのだろう、と。でもそれってもう一度考えてみると、当たり前のことでもある。…」
posted by Fukutake at 08:22| 日記