「風俗 江戸東京物語」 岡本綺堂 河出文庫 2001年
手習師匠 p144〜
「上方では手習を教えるところを寺子屋と唱えていましたが、江戸では寺子屋とは言いません。 単に手習師匠といってました。
この時代には、手習師匠のところで教える文字は、仮名・草書・行書の三種類だけで、決して楷書は教えなかったのです。 その当時は楷書というものを現今の隷書のように見なしていたので、普通一般には使用されなかったのです。
むしろ楷書を実用的の字として認めないくらいであったのです。 現今の人達が隷書を知らぬといっても少しも恥にならないのと同じように、昔の人達は楷書が書けないといっても、決して恥にはならなかったのです。
公文書、その他の布達なども、必ず草書、即ち御家流が用いられ、出版物は多く行書が使用されていました。 従って楷書というものは一種の趣味として習うくらいのもので、別に書家について習わなければなりませんでした。
手習師匠にも、武家の師匠と町師匠との二通りありました。 武家の師匠は旗本・御家人などのうちで、文字の上手な者がなっていましたが、文武の師匠には如何なる身分の者がなろうとも、なんら制限も干渉も受けなかったのです。 幕府ではむしろそれを奨励するという意味で、文武の師匠になっている者は上の覚えも目出度かったということです。
手習弟子の数は多くて三百人、すくなくとも七、八十人くらいはありました。稽古場の設備なども、弟子の多寡によってそれぞれ相違もありましたが、大抵どこの稽古場でも、四方は板羽目になって、縁無しの畳が敷いてありました。 正面には教え机を置き、その前に師匠が控えて稽古場を一目に見渡せるようにしてありました。
弟子達は天神机(手習机。江戸時代、手習のとき子供たちが使った引出し付きの粗末な机)を三側(さんそく)に並べ、年頃の大中小によって三組に区別されていましたが、師匠一人ではとても大勢の世話が行届かないので、その助手として番頭というものがありました。
番頭は弟子の中から選ばれていましたが、これは相当に年も取って、よくできる者でなければ勤まりませんでした。 ただ世話をするといっても、これが師匠に代わって代稽古もしていたのです。 そして、番頭一人の受持は大抵三、四十人くらいと決まっていました。
手習師匠に弟子入りする時期というものは、(現今の四月一日というように)きちんと八歳の三月頃から弟子入りをしていました。
弟子入りの時には必ず女親が連れて行くことになっていましたが、その時に持って行くものには、天神机・硯・草子十冊がお決まりで、弟子達に分配する煎餅、師匠の方へは束脩(そくしゅう。入門する時に納める金銭。二朱くらい)、奥へ砂糖袋(一斤)というのが普通の例になっていました。 これらの模様は「寺子屋」の芝居を観ればすぐに判ります。
文字の流儀はいろいろありましたが、御家流・大橋流・溝口流・持明院流などが多かったようです。」
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太古から響く太鼓と虫の音
「新編 日本の面影」 ラフカディオ・ハーン 池田雅之=訳 角川ソフィア文庫 平成十二年
盆踊り p67〜
「突然、太くて低い、ゴーンという轟が境内に響き渡った。 どこかの寺の鐘が、朗々と夜の十二時を告げたのだ。 すると、その音で、はっと夢から目覚めたかのように、魔法が解けたのである。 歌声が止み、踊りの輪が崩れ、うれしそうな笑い声や、お喋りの声が聞こえてくるようになった。 花の名前と同じ少女たちの名前を、やさしく母音のひびきを響かせながら呼ぶ声や、「さようなら」という別の挨拶が、飛び交っている。 踊り子たちも、見物人も、下駄をコロコロと大きく打ち鳴らしながら家路につく。
私も、大勢の人の波にもまれながら、突然、眠りから揺り起こされたような戸惑いを感じて、どこか浮かない気分でいた。 銀の音のような笑い声を発している村の娘たちが、けたたましく下駄の音を立てながら、私のそばまで駆け寄ってきては、外国人の私の顔をのぞきこむ。 ほんの少し前まで、古いみやびの光景が、妖しく、心楽しい幽霊の幻影が、そこに存在したというのにー。 それが今では、こういう風にただの田舎娘に変わってしまったのだ。 私はそれに対し、言うに言われぬ憤りを覚えたのだった。
あの素朴な村娘たちの合唱によって私の胸に湧き起こった、あの感動は、いったい何だったのだろうー 床につきながら、私はそんなことを考え始めていた。 あの絶妙な間合いと、断続的に歌われた盆踊りの歌の調べを思い出すことは難しい。 それは、鳥の流れるようなさえずりを、記憶の中に留めておけないのと同じである。 しかし、その何ともいえない魅力は、いつまでも私の心から消え去らないのである。
西洋のメロディなら、それが、私たちの胸に呼び起こす感情を言葉にすることもできるであろう。 それは、自分たちの過去を遡る、すべての世代から受け継がれてきた母国語のように、われわれになじみのある感情であるからだ。 ところが、西洋の歌とはまったく異なる、原始的な歌が呼び起こす感情は、いったいどう説明すればいいのであろう。 あの音色は、われわれの音楽言語である音譜に移しかえることさえできないのではないだろうか。
そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。 それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。 感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。 それにしても、あの歌は、誰に教わるでもなく、自然界のもっと古い歌と無理なく調和している。 あの歌は、寂しい野辺の歌や、あの「大地の美しい叫び」を生み出す夏虫の合唱と、知らず知らずのうちに血が通いあっているのである。 そこに、あの歌の秘密があるのではないだろうか。 私はそんな風に思っている。」
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盆踊り p67〜
「突然、太くて低い、ゴーンという轟が境内に響き渡った。 どこかの寺の鐘が、朗々と夜の十二時を告げたのだ。 すると、その音で、はっと夢から目覚めたかのように、魔法が解けたのである。 歌声が止み、踊りの輪が崩れ、うれしそうな笑い声や、お喋りの声が聞こえてくるようになった。 花の名前と同じ少女たちの名前を、やさしく母音のひびきを響かせながら呼ぶ声や、「さようなら」という別の挨拶が、飛び交っている。 踊り子たちも、見物人も、下駄をコロコロと大きく打ち鳴らしながら家路につく。
私も、大勢の人の波にもまれながら、突然、眠りから揺り起こされたような戸惑いを感じて、どこか浮かない気分でいた。 銀の音のような笑い声を発している村の娘たちが、けたたましく下駄の音を立てながら、私のそばまで駆け寄ってきては、外国人の私の顔をのぞきこむ。 ほんの少し前まで、古いみやびの光景が、妖しく、心楽しい幽霊の幻影が、そこに存在したというのにー。 それが今では、こういう風にただの田舎娘に変わってしまったのだ。 私はそれに対し、言うに言われぬ憤りを覚えたのだった。
あの素朴な村娘たちの合唱によって私の胸に湧き起こった、あの感動は、いったい何だったのだろうー 床につきながら、私はそんなことを考え始めていた。 あの絶妙な間合いと、断続的に歌われた盆踊りの歌の調べを思い出すことは難しい。 それは、鳥の流れるようなさえずりを、記憶の中に留めておけないのと同じである。 しかし、その何ともいえない魅力は、いつまでも私の心から消え去らないのである。
西洋のメロディなら、それが、私たちの胸に呼び起こす感情を言葉にすることもできるであろう。 それは、自分たちの過去を遡る、すべての世代から受け継がれてきた母国語のように、われわれになじみのある感情であるからだ。 ところが、西洋の歌とはまったく異なる、原始的な歌が呼び起こす感情は、いったいどう説明すればいいのであろう。 あの音色は、われわれの音楽言語である音譜に移しかえることさえできないのではないだろうか。
そもそも、人間の感情とはいったい何であろうか。 それは私にもわからないが、それが、私の人生よりもずっと古い何かであることは感じる。 感情とは、どこかの場所や時を特定するものではなく、この宇宙の太陽の下で、生きとし生けるものの万物の喜びや悲しみに共振するものではないだろうか。 それにしても、あの歌は、誰に教わるでもなく、自然界のもっと古い歌と無理なく調和している。 あの歌は、寂しい野辺の歌や、あの「大地の美しい叫び」を生み出す夏虫の合唱と、知らず知らずのうちに血が通いあっているのである。 そこに、あの歌の秘密があるのではないだろうか。 私はそんな風に思っている。」
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posted by Fukutake at 09:27| 日記