2023年06月03日

お金の限界効用は逓増

「サイバー経済学」 小島寛之 集英社新書 2001年

新しいケインズ派不況理論ー小野理論 p218〜

 「ケインズ理論を凌駕し、経済社会のメカニズムに肉迫するみごとな理論が現れたか、というと、そうはいえないのは現状なのである。
 そんな中でも、その可能性があるのは、日本の経済学者・小野善康の発表した理論である。 小野はケインズ理論の骨子を綿密に検討し、その飛躍や不備の多くを改修して、新たな装いで復興させた。

 ここではほんのつまみ食い程度に、小野理論を紹介する。
 まず、人々の所得の使い道が三通りあることを確認することから始めよう。
人々は得た収入で、消費するか、貯蓄をするか、貨幣を所持するか、の三つの選択がある。 そして人々は、結局この三種類の用途に応じて最適な比率で配分することになる。
 このとき、その配分は、消費と貨幣と貯蓄との間で、どれを減らしてどれにまわしても、満足度を増やすことができないような、そういうつりあいになっているはずである。 それが最適配分ということを意味するのである。

 一方企業は、生産した財がいくらで売れるかというその市場価格と、生産のために雇う労働者に支払う賃金とを比較検討して、その生産量を決める。 すなわち、その差額である利潤が最大になるように、生産量を決定するわけである。 その生産量が、雇用される労働者数を決め、人々の所得を決める。 失業が出るか否かは、この水準に左右される。

 そして今労働の完全雇用が実現され、生産される財と消費される財が一致するのが新古典派の均衡であり、また小野モデルの均衡の正常な均衡とも同じなのである。ところが、小野モデルの真骨頂は、このような新古典派の均衡状態から、ケインズ的な不況メカニズムを手品のように取りだしてみせるところにある。 小野はまったく同じ仕組みのもとで、デフレ均衡を描写したのである。

 小野のいうデフレ均衡とは、完全雇用が達成されず、失業者が存在するままで、経済が定常状態にはまりこむことである。 失業が存在するにもかかわらず、生産も消費もその不完全な水準に張りついて動かなくなるのである。 これはいったいどんなからくりで生じるというのであろうか。小野は次のような仮定をした。 貨幣量がある大きさに達すると、貨幣保有の追加的効用が低下しなくなる、という仮定である。すなわち一般財の場合は、追加的な効用は徐々に小さくなるが、貨幣についてはそうではない、たとえば一万円所有することで得られる喜びは、追加的な一万円を得ても喜びは減少しなくなると仮定したのである。 この仮定がデフレ均衡を生みだす源泉となる。
 言い換えると、貨幣保有に対する追加的効用がこれ以上減らない状態になっていると、増えた資産をすべて貨幣保有にまわしてしまうので、消費は増えない。 消費が一定値に低止まりしたままなので、これが定常状態となる。

 結局、人々の貨幣保有に対する貪欲さ、いくら貨幣を持っても飽きぬ欲望によって、消費・貯蓄への配分は、今と同じに固定されてしまう。 このように、物価を調整弁として完全雇用に向かおうとする圧力は、すべて人々の貨幣への欲望に吸収されてしまう。 人々は将来への不安から、そのまま貨幣のままで所持しようとして、消費を増やさない。これが不況の長期化の仕組みを説明する小野理論である。」

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posted by Fukutake at 07:42| 日記

椰子の実

「柳田國男全集 21」ー故郷七十年ー 筑摩書房 1997年

藤村の詩「椰子の実」  p341〜

 「僕が二十一歳の頃だったか、まだ親が生きてゐるうちぢやなかつたかと思ふ。 少し身体を悪くして三河に行つて、渥美半島の突つ端の伊良湖岬に一ヶ月静養してゐたことがある。
 海岸を散歩すると、椰子の実が流れ来るのを見付けることがある。 暴風のあつた翌朝など殊にそれが多い。 椰子の実と、それから藻玉といつて、長さ一尺五寸も二尺もある大きな豆が一つの鞘に繋がつて漂着して居る。 シナ人がよく人間は指から老人になるものだといつて、指先きでいぢり廻して、老衰を防ぐ方法にするが、あれが藻玉の一つなわけだ。 それが伊良湖岬へ、南の果てから流れて来る。 殊に椰子の流れて来るのは実に嬉しかつた。 一つは壊れて流れて来たが、一つはそのまま完全な姿で流れついて来た。

 東京へ帰つてから、そのころ島崎藤村が近所に住んでいたものだから、帰つて来るなり直ぐ私はその話をした。 そしたら「君、その話を僕に呉れ給へよ。誰にも云わずに呉れ給へ」といふことになつた。 明治二十八年か九年か、一寸と、はつきりしないがまだ大学に居るころだつた。 するとそれが、非常に吟じ易い歌になつて、島崎君の新体詩といふと、必ずそれが人の口の端に上がるといふようなことになつてしまつた。

 この間も若山牧水の一番好いお弟子さんの大悟法君といふのがやつて来て、「あんたが藤村に話てやつたつて本当ですか」と聞くものだから、初めてこの昔話を発表したわけであつた。
 牧水も椰子の実の歌を二つ作つて居る。 日向の都井岬といつて日向の一番突端の海岸で、牧水が椰子の歌を作つたことがあるから、その記念のため、碑を立てさせてくれといふことを、門人達が宮アの近所の人たちに頼んださうである。 ところがそこの新聞記者の中に反対するものがあつて、「あんな所に椰子の実なんか流れて来やしませんよ、そんな歌の碑を立てたら却つて歌の価値が下りますよ」といつたといふ。 大悟法君が悔しがつて自分で都井岬へ行つて見たところ、何とそこの茶店に椰子の実がズーッと並んでゐたので、「こんなに流れつくのかい」と聞いたら、「ええ、いつでも」なんて云つたといふわけ。

 それで大悟法君、宮アの新聞記者に欺されたといつて悔しがつて居た。 藤村の伝記を見ても判るやうに、三河の伊良湖岬に行つた気遣ひはないのに、どうして彼は「そをとりて胸にあつれば」などといふ椰子の実の歌ができたのかと、不思議に思ふ人も多かろう。 全くのフィクションのよるもので、今だから云ふが真相はこんな風なものだつた。 もう島崎君も死んで何年にもなるから話ておいてもよからう。 この間も発表して放送の席を賑わしたことである。 何にしてもこれは古い話である。」

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posted by Fukutake at 07:36| 日記