「痴愚神礼讃」 エラスムス 渡辺一夫 訳 岩波文庫
痴愚女神様 p75〜
「プラトンなりアリストテレスなりの掟とか、或はソクラテスの教とかいふもので治められた国家が一つでもありませうかしら? デキウス*が潔くマネス*の神々に身を捧げる気になったのは、何の為でしたかしら? クゥルティウスが深淵の方へと弾き摺られるやうにして行ったのは、何の為でせうかしら? 虚栄以外の何ものでもありませんし、これこそ正に、有無を言わさずに人々を捕らえてしまふ魔女のシレンですが、賢人どもからは、散々呪詛を浴びせかけられてゐるものですね。
賢人連中はかう申しますよ、「自分が当選するやうにと、民衆に御追従を言ってみたり、投票を買収したり、山とゐる馬鹿者どもの喝采を願い求めたり、やんやと言われて有卦*に入ったり、偶像のやうに意気揚々と擔ぎまはられたり、己が姿が銅像となって広場へ立てられたりするくらい馬鹿げたことがあらうか? これに加へるに、業業しく姓名を貼り出したり、哀れな一個の人間へ神に対するやうな栄誉を与えたり、国を挙げての儀式を行って、世にも憎むべき暴君を神に*類(なぞら)へたりまでする。 これは正しく、一人デモクリトスだけでは嘲弄するのに手が足りぬほどの狂気沙汰だ」と。
さうかもしれませんね。 しかし、かういふ狂気沙汰から、英雄たちの高貴な行為が生まれ出て、多くの文藻豊かな人びとの文字によって、雲の上まで持ちあげられることになるのですよ。 かういふ狂気沙汰から、都市は生まれ出るのですし、国権も法制も宗教も、議会も裁判も、それによってこそ保たれるのでして、人間の生活といふものは、全く、この痴愚女神様の一寸した手なぐさみにすぎないのですよ。」
デキウス* 親子三代に亘ってローマのために戦死した
マネス* 亡霊の神
有卦* 幸運に恵まれて良いことが続く
暴君を神に* ローマ皇帝が死ぬと、これを神として祭る儀式が行われた
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想像と現実のスケールの違い
「ヒトの見方」 養老孟司 ちくま文庫 1991年
人体のイメージ p82〜
「おそらくは臨床家になるだろうと考えられる学生に対する解剖学教育の目的ですが、私はそれを、人体についてのその学生なりのある形態的な像(イメージ)を創ってもらうことだ、と考えています。
こうした像は、もちろん完成した定型ではなく、一生の間に必要に応じて変化し、また不必要なら消えていくものです。 私どもはそうした像をはじめから完成したものとして学生に与えることはできません。 当然のことですが、この像は、常に現実という詳細(デテール)を通じて与えられ、自然に育ってゆきます。
頭の良い人は、教官、学生を問わず、右で述べたような像を、逆にできるだけ早く最終的な定型としてとらえ、固定しようとします。 しかし、現実という詳細を通じてでなければ、決して有効な像はできません。 現代人は、たいへん忙しいため、しばしばこの面からも解剖学を非難することがあるようです。
人体の像を構成するという場合、現代の解剖学教育で大きな問題となるのは、化学的な世界像と形態学で与える世界像の落差だと思います。 私には、まだここに大きな断層があるように見えます。
現代医学が、基礎的にも臨床的にも、化学に大いに依存していることは明瞭です。 しかし化学の与える世界像と形態学の与えるそれは、十分な一致を見ておりません。 たとえば水の分子を一ミリの大きさで描いたとします。 その時に細胞の大きさはどの位になるでしょうか。
概算ですが、その場合、細胞の大きさは約五キロになります。 これはいわば都会の大きさであり、その際人体の大きさは、ほぼ十万キロの単位になります。 化学的な世界を視覚化することはこうした意味ではたいへん難しいことだという事実は、ふつう避けて通られているように思います。 真理は一つ、したがって科学は一つ、と思われているからです。
形態学では、目に見えるものを扱います。 たとえ論理に則(のっと)らなくても、形態の世界では先に存在がありますから、それを何とか頭に入れなければなりません。 これが原始的である所以であります。 人体の構造を何とか頭に入れるために、先人が苦労して創ってきたソフトウェアが実は解剖学用語であり、系統解剖学です。 そうしたソフトが現在でも十分に有効かどうかについては、たしかに問題がありましょうが、その点を論じている余裕はありません。
それは解剖学の与えたのは、素朴ではありますが、現実を精緻に観察して考え整理するという、解剖学が示した方法が臨床医学にもたいへん有効だったからではないでしょうか。 その意味で、解剖学は現代医学の歴史でいわば認識論の役割を演じてきたのだと思います。 解剖学教育の有用性は、、結局その辺りにあろうか、と常々考えている次第です。」
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人体のイメージ p82〜
「おそらくは臨床家になるだろうと考えられる学生に対する解剖学教育の目的ですが、私はそれを、人体についてのその学生なりのある形態的な像(イメージ)を創ってもらうことだ、と考えています。
こうした像は、もちろん完成した定型ではなく、一生の間に必要に応じて変化し、また不必要なら消えていくものです。 私どもはそうした像をはじめから完成したものとして学生に与えることはできません。 当然のことですが、この像は、常に現実という詳細(デテール)を通じて与えられ、自然に育ってゆきます。
頭の良い人は、教官、学生を問わず、右で述べたような像を、逆にできるだけ早く最終的な定型としてとらえ、固定しようとします。 しかし、現実という詳細を通じてでなければ、決して有効な像はできません。 現代人は、たいへん忙しいため、しばしばこの面からも解剖学を非難することがあるようです。
人体の像を構成するという場合、現代の解剖学教育で大きな問題となるのは、化学的な世界像と形態学で与える世界像の落差だと思います。 私には、まだここに大きな断層があるように見えます。
現代医学が、基礎的にも臨床的にも、化学に大いに依存していることは明瞭です。 しかし化学の与える世界像と形態学の与えるそれは、十分な一致を見ておりません。 たとえば水の分子を一ミリの大きさで描いたとします。 その時に細胞の大きさはどの位になるでしょうか。
概算ですが、その場合、細胞の大きさは約五キロになります。 これはいわば都会の大きさであり、その際人体の大きさは、ほぼ十万キロの単位になります。 化学的な世界を視覚化することはこうした意味ではたいへん難しいことだという事実は、ふつう避けて通られているように思います。 真理は一つ、したがって科学は一つ、と思われているからです。
形態学では、目に見えるものを扱います。 たとえ論理に則(のっと)らなくても、形態の世界では先に存在がありますから、それを何とか頭に入れなければなりません。 これが原始的である所以であります。 人体の構造を何とか頭に入れるために、先人が苦労して創ってきたソフトウェアが実は解剖学用語であり、系統解剖学です。 そうしたソフトが現在でも十分に有効かどうかについては、たしかに問題がありましょうが、その点を論じている余裕はありません。
それは解剖学の与えたのは、素朴ではありますが、現実を精緻に観察して考え整理するという、解剖学が示した方法が臨床医学にもたいへん有効だったからではないでしょうか。 その意味で、解剖学は現代医学の歴史でいわば認識論の役割を演じてきたのだと思います。 解剖学教育の有用性は、、結局その辺りにあろうか、と常々考えている次第です。」
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posted by Fukutake at 07:37| 日記