「田中美知太郎全集 15」 筑摩書房 昭和六十三年
悪者さがし p178〜
「刑事コロンボというテレビ番組が人気を集めたことがあった。 わたしの幼稚な素人考えをのべることが許されるなら、これが楽しめる見ものになったのは、次のようなことから来ているのではないだろうか。 これは最初に犯人が誰であるか教えてくれる。 だからわたしたちは、犯人さがしの労をはぶいてもらうことになる。 これは推理ものの楽しみを半減させるものとも考えられるが、実際はそうではなく、あらかじめ答えを知らされているために、かえってわたしたちは、推理の筋道を簡単明瞭に理解ができて、頭がよくなったような錯覚さえあたえられる。 しかも刑事の相手にする人物は、いずれも社会の上流に位するエリート、成功者なのであって、すぐれた知力をつかって、必死の防戦を試みるから、そこには知的レスリングの面白さが出てくる。 いわゆるアクションらしいものはほとんどなく、ピストルの撃ち合いも、追いかけごっこのスピード競走もなく、むしろそれら一切を排除して、純粋に知的な格闘を見せてくれる。
そしてあまり風采のあがらない一刑事が、綿密な証拠あつめをして、知力にすぐれた相手をやはり同じ知力を用いて追いつめ、ついに敗北を認めさせるのであるから、この勝負は一般市民を満足させることにもなる。 これは世の強者、エリートに対するかれらの勝利として、一種の復讐の喜びを感じさせることにもなるだろう。
しかしながら、これは犯罪者を追いつめるプロセスに重点がおかれていて、いわゆる悪人退治そのものが主眼になってはいないようである。 殺人が行なわれるとしても、それは華麗な殺人とでも呼ばれ得るようなところがあったりして、あまり暗くみじめな感じはないようである。 犯罪の動機も、すでにもっている名誉や地位を守るためのものが多く、他の場合のように金を手に入れて、これからは好き勝手な生活ができるなどとよろこんでいるー小物の悪党のいやらしさは見られない。 堂々たる悪人という感じである。 だから、かれらの敗北には選挙に敗れた有力候補者とか、作戦に失敗した将軍のようなところがないでもない。 つまり悲劇的なのである。 しめっぽく、みじめったらしいところのないのが、本来の悲劇の味だからである。
これはテレビ番組を種にして、見当はずれな勝手なことを言っていると笑われそうである。 しかしわたしがここで刑事コロンボを登場させたのは、ただ次のことのためだったのである。 何かのきっかけで悪人をきめてしまうと、もうそれからは聞く耳をもたぬというようなやり方でなく、相手にも好きな武器を選んで戦うことを許し、あらゆる理由と事実を吟味して、堂々と勝負した上で、はじめて断罪すべきであるということを、いくらかわかりやすくするためである。 しかし現在のわが国には、知的格闘の相手になるような堂々たる大悪人はまだいないのかもしれない。」
(巻頭随筆『文藝春秋』昭和五十二年一月号)
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差別を前提の平等主義
「我々はどこから来て、今どこにいるのか?(上)」ーアングロサクソンがなぜ覇権を握ったかー エマニュエル・トッド 文藝春秋 2022年
人類の細分化 p151〜
「ホモ・サイエンスのことを、生物の進化プロセスの中で自然選択された、他のすべての生物と異なる唯一無二の動物種として語るのはよいが、だからといって、この種が自然に細分化されていることを見落としてはならない。 動物行動学によれば、人類は内的攻撃性、同一種内での攻撃性のポテンシャルが大きいことを特徴とする種だという。 そのことをアダム・ファーガソンが『市民社会史』の中で北米インディアンに関してそれを捉えていた。
<<最新の発見のおかげで、人びとが置かれ得るほとんどすべての地理的状況を知ることができるようになった。 一方を見れば、人びとが広大な土地のいたるところに住み、そこでは互いの連絡が簡単で、さまざまなネイションをつなぐ連合体も容易に形成されるような状況がある。 別の方向に目をやれば、人びとはより狭い空間に密集し、山脈によって、入り江によって、居住空間を限定されている。 そういう状況は大陸から離れた小さな島々にも見出された。 そうした所には住民たちが集合しやすく、集合から有利さを引き出しやすい状況が存在していた。 さて、分かったのは、それらすべての状況において等しく人びとが小郡ごとに分れて暮らし、異なる名称を用い、共同体を別々にすることで、大いに好んで自分たちのあいだに区別を設けていることだった。 同国人、同郷人といった諸身分は、それらの参照対象になる異邦人という身分との対立なしには意味を失い、廃れてしまうだろう>>
ファーガソンは、人間集団のあいだの本質や性質の差異に帰してしまう誤りを犯さない。 複数の人間集団がいつも紛争状態にあるのはなぜか。 いずれの集団も等しく人間で構成されているからだ。 そして、集団内部の道徳性を外部の集団に対する敵意に結びつける。
<<これらの観察はわれわれ人類を告発し、人間というものについて好ましくないイメージを生み出すように思われる。…戦士たちを自国の防衛に立ち上がらせるのは、高潔寛大な無私の感情である。 人間性から見て最も好ましい心の傾向が、人々のあいだに明白な敵対関係の原則になるのだ。…ネイション同士のあいだに対抗関係がなければ、戦争に訴えるということがなければ、市民社会は目的を持つことも、ひとつの形を成すことも、ほとんどできない>>
この捉え方がいかに生々しく現代に通じているか、われわれは、ヨーロッパのネイション間の平和が持つ社会解体的効果を確認することをとおして痛感する。 ファーガソンを読んだあとでよりよく理解できるのは、現代の先進諸国の社会が、自らのバランスを取り戻すために、国内でイスラム教徒たちを独特の集団と理解したり、対外的にはロシアを悪魔化したりする必要に駆られているということだ。 突き詰めれば、そのバランスは諸国家の和解によって脅かされているのである。 米国で黒人たちがひとつの集団として切り離される状況が永く続くのも、人類固有の同じ論理に起因している。」
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集団内への団結と集団外への警戒心
人類の細分化 p151〜
「ホモ・サイエンスのことを、生物の進化プロセスの中で自然選択された、他のすべての生物と異なる唯一無二の動物種として語るのはよいが、だからといって、この種が自然に細分化されていることを見落としてはならない。 動物行動学によれば、人類は内的攻撃性、同一種内での攻撃性のポテンシャルが大きいことを特徴とする種だという。 そのことをアダム・ファーガソンが『市民社会史』の中で北米インディアンに関してそれを捉えていた。
<<最新の発見のおかげで、人びとが置かれ得るほとんどすべての地理的状況を知ることができるようになった。 一方を見れば、人びとが広大な土地のいたるところに住み、そこでは互いの連絡が簡単で、さまざまなネイションをつなぐ連合体も容易に形成されるような状況がある。 別の方向に目をやれば、人びとはより狭い空間に密集し、山脈によって、入り江によって、居住空間を限定されている。 そういう状況は大陸から離れた小さな島々にも見出された。 そうした所には住民たちが集合しやすく、集合から有利さを引き出しやすい状況が存在していた。 さて、分かったのは、それらすべての状況において等しく人びとが小郡ごとに分れて暮らし、異なる名称を用い、共同体を別々にすることで、大いに好んで自分たちのあいだに区別を設けていることだった。 同国人、同郷人といった諸身分は、それらの参照対象になる異邦人という身分との対立なしには意味を失い、廃れてしまうだろう>>
ファーガソンは、人間集団のあいだの本質や性質の差異に帰してしまう誤りを犯さない。 複数の人間集団がいつも紛争状態にあるのはなぜか。 いずれの集団も等しく人間で構成されているからだ。 そして、集団内部の道徳性を外部の集団に対する敵意に結びつける。
<<これらの観察はわれわれ人類を告発し、人間というものについて好ましくないイメージを生み出すように思われる。…戦士たちを自国の防衛に立ち上がらせるのは、高潔寛大な無私の感情である。 人間性から見て最も好ましい心の傾向が、人々のあいだに明白な敵対関係の原則になるのだ。…ネイション同士のあいだに対抗関係がなければ、戦争に訴えるということがなければ、市民社会は目的を持つことも、ひとつの形を成すことも、ほとんどできない>>
この捉え方がいかに生々しく現代に通じているか、われわれは、ヨーロッパのネイション間の平和が持つ社会解体的効果を確認することをとおして痛感する。 ファーガソンを読んだあとでよりよく理解できるのは、現代の先進諸国の社会が、自らのバランスを取り戻すために、国内でイスラム教徒たちを独特の集団と理解したり、対外的にはロシアを悪魔化したりする必要に駆られているということだ。 突き詰めれば、そのバランスは諸国家の和解によって脅かされているのである。 米国で黒人たちがひとつの集団として切り離される状況が永く続くのも、人類固有の同じ論理に起因している。」
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集団内への団結と集団外への警戒心
posted by Fukutake at 07:52| 日記
2023年06月29日
解剖と修行
「小説を読みながら考えた」 養老孟司 双葉社 2007年
解剖と修行 p186〜
「解剖は手作業である。 その作業をする間、ああでもない、こうでもないと、いろいろ考える。 ほとんど愚にもつかないことだが、おかげであれこれ、どうでもいいことを考える癖がつく。 忙しくて、役に立つことばかりしていたら、こういう暇はあるまい。 しかも死体という存在は、現代では程遠い。 それなら「滝に打たれる」のと似たようなものであろう。
大学を辞めて、その解剖が日常から消えたから、今度は虫になった。 これも修行以外のなにものでもない。 虫を見たって、作品は残らない。 虫を捕まえて、標本にすれば、標本は残る。 しかしその標本は、「見る人がいる」ことが前提になっている。 私は虫捕りをする人の気持ちがわかるから、標本を懸命に見る。 見なけりゃ、標本の意味がないではないか。 しかし標本を見て、どうなる。 どうにもならない。 ふたたび「自分に返す」しかないのである。 それなら標本を見るのも、修行である。
そこでやっと読書にたどり着く。 読書も役に立たない。 立つと思う人は、ノウハウ本を読むであろう。 だからノウハウ本は売れる。 しかしそれは読書ではない。 読まなくたって内容を教えてもらえばいいからである。 キングのホラーを読んだって、なんの役にも立たない。 そんなことはわかりきっている。 だからそれは読書なのである。 読んだという行為を「自分に返す」しかないからである。
よくそれを「自分が豊かになる」という。 これもなんだか、あまり嬉しくない。 豊かもなにも、私はいつでも私である。 ただしそれは、「同じ私」という意味ではない。 私は私なのだから、それはいつも違う私なのだといってもいい。
解剖のように、自分が働きかけない限り、まったく変化しない対象を扱っていると、自分の変化に敏感になるしかない。 読書も同じである。 何度読んでも、相手は同じである。 ただし読書の固定性は、解剖の場合よりひどい。 自分でやった分だけは、相手が変化する。 本になればそれもない。 十年前に読んだ本の中身は、十年前のままである。 作品が残るということは、そういうことである。
比叡山に千日行のお坊さんがいる。 これも修行の典型であろう。 山の中を千日駆けずり回って、なにかになるとは思えない。 「役に立つ」ことを主眼とする現代人の生き方に、こうした修行は含まれていないであろう。 それで生き甲斐とか、人生の豊かさとかいう。 そんなことを思うなら、修行をすればいいのである。 もっとも私は、そんなことを考えずに、修行の世界に放り込まれた。 修行なんて、それでなけりゃ、できないものかもしれないのである。」
(「小説推理」二〇〇四年六月号)
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自分に返す;自分を顧みる
解剖と修行 p186〜
「解剖は手作業である。 その作業をする間、ああでもない、こうでもないと、いろいろ考える。 ほとんど愚にもつかないことだが、おかげであれこれ、どうでもいいことを考える癖がつく。 忙しくて、役に立つことばかりしていたら、こういう暇はあるまい。 しかも死体という存在は、現代では程遠い。 それなら「滝に打たれる」のと似たようなものであろう。
大学を辞めて、その解剖が日常から消えたから、今度は虫になった。 これも修行以外のなにものでもない。 虫を見たって、作品は残らない。 虫を捕まえて、標本にすれば、標本は残る。 しかしその標本は、「見る人がいる」ことが前提になっている。 私は虫捕りをする人の気持ちがわかるから、標本を懸命に見る。 見なけりゃ、標本の意味がないではないか。 しかし標本を見て、どうなる。 どうにもならない。 ふたたび「自分に返す」しかないのである。 それなら標本を見るのも、修行である。
そこでやっと読書にたどり着く。 読書も役に立たない。 立つと思う人は、ノウハウ本を読むであろう。 だからノウハウ本は売れる。 しかしそれは読書ではない。 読まなくたって内容を教えてもらえばいいからである。 キングのホラーを読んだって、なんの役にも立たない。 そんなことはわかりきっている。 だからそれは読書なのである。 読んだという行為を「自分に返す」しかないからである。
よくそれを「自分が豊かになる」という。 これもなんだか、あまり嬉しくない。 豊かもなにも、私はいつでも私である。 ただしそれは、「同じ私」という意味ではない。 私は私なのだから、それはいつも違う私なのだといってもいい。
解剖のように、自分が働きかけない限り、まったく変化しない対象を扱っていると、自分の変化に敏感になるしかない。 読書も同じである。 何度読んでも、相手は同じである。 ただし読書の固定性は、解剖の場合よりひどい。 自分でやった分だけは、相手が変化する。 本になればそれもない。 十年前に読んだ本の中身は、十年前のままである。 作品が残るということは、そういうことである。
比叡山に千日行のお坊さんがいる。 これも修行の典型であろう。 山の中を千日駆けずり回って、なにかになるとは思えない。 「役に立つ」ことを主眼とする現代人の生き方に、こうした修行は含まれていないであろう。 それで生き甲斐とか、人生の豊かさとかいう。 そんなことを思うなら、修行をすればいいのである。 もっとも私は、そんなことを考えずに、修行の世界に放り込まれた。 修行なんて、それでなけりゃ、できないものかもしれないのである。」
(「小説推理」二〇〇四年六月号)
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自分に返す;自分を顧みる
posted by Fukutake at 07:36| 日記