2023年05月31日

F104

「太陽と鉄」 三島由紀夫 講談社文庫 昭和四十六年

F104 p87〜

 「F104の離陸は徹底的な離陸だった。 零戦が十五分をかけて昇った一万フィートの上空へ、それはたった二分で昇るのだ。 +Gが私の肉体にかかり、私の内臓はやがて鉄の手で押し下げられ、血は砂金のように重くなる筈だ。 私の肉体の錬金術がはじまる筈だ。

 Gは神的なものの物理的な強制力であり、しかも陶酔の正反対に位する陶酔、知的極限の反対側に位置する知的極限なのにちがいない。
F104は離陸した。 機首は上った。 さらに上った。 思う間に手近な雲を貫いていた。 1万五千フィート、二万フィート。 高度計と速度計の針が白い小さな高麗鼠のように回っている。 準音速のマッハ0.9。

 ついにGがやってきた。 が、それは優しいGだったから、苦痛ではなくて、快楽だった。 胸が、滝に落ちるように、その落ちた滝の後に何もないかのように、一瞬空になった。 私の視界はやや灰色の青空に占められていた。 それは青空の一角をいきなり齧り、青空の塊りを嚥下する感覚だ。 清澄なままに理性は保たれていた。 すべては静かで、壮大で、青空のおもてには白い雲の精液が点々と迸っていた。 眠っていなかったから醒めることもなかった。 しかし醒めている状態から、もう一度、荒々しく剥ぎ取られたような覚醒があって、精神はまだ何一つ触れたもののないように無垢だった。 風防ガラスのあらわな光の中で、私は晒された歓喜を噛んでいた。 苦痛に襲われたように、多分歯をむき出して。

 私はかつて空に見たあのF104と一体になり、私は正に、かつて私がこの目に見た遠いもの中へ存在を移していた。 つい数分前まで私もその一人であった地上の人間にとって、私は一瞬にして「遠ざかりゆく者」になり、かれらの刹那の記憶に他ならない一点に、今正に存在していた。

 風防ガラスをつらぬいて容赦なくそそぐ太陽光線、この思うさま裸になった光の中に、栄光の観念がひそんでいると考えるのは、いかにも自然である。 栄光とはこのような無機的な光り、超人間的な光り、危険な宇宙線に充ちたこの裸の光輝に、与えられた呼名にちがいない。

 三万フィート、三万五千フィート。

 雲海ははるか下方に、目に立つほどの凹凸もなく、純白な苔庭のようにひろがっていた。 F104は、地上に及ぼす衝撃波を避けるために、はるか海上へ出て、南下しながら、音速を超えようとするのである。
 午後二時四十三分、三万五千フィートで、それはマッハ0.9の準音速から、かすかな震動を伴って、音速を超え、マッハ1.15、マッハ1.2、マッハ1.3にに至って、四万五千フィートの高度へ昇った。 沈みゆく太陽は下にあった。」

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搭乗したのは、一九六八年か。

posted by Fukutake at 08:58| 日記

昭和八年に返りたい

「世は〆切(しめきり)」 山本夏彦 文藝春秋 平成八年

「大学は出たけれど」 p61〜

 「小津安二郎監督の「大学は出たけれど」は昭和四年の作である。 一度見たいと思いながらまだ見ていない。 なぜ見たいかというと、そこには凍結された昭和四年がぎっしりつまっていると想像するからである。 私は居ながらにして昭和四年を呼吸できるのである。
 昭和四年はエログロナンセンス、円タクまた北沢楽天宮尾しげを下川凹天たちの漫画の時代である。 不景気のどん底である。

 失業者の多くが運転手になったから値下げ競争になって市内一円、次いで五十銭にまでさがった。 もっとも当時の市内は十五区でせまい。 渋谷中野目白などは市外(郡部)である。
 客は一々かけあって乗るのではない。 「銀座まで五十銭」と声をかければよかった。 運転手がいやなら素通りする。 次の車に声をかければたいてい乗れた。
 私は映画のなかでそういう場面を見たいのである。 タキシーならその全貌が見たい。 助手席があって、そこには助手または見習いがいた。 客席には補助椅子があった。 車は雨の日はドロよけをつけた。 当時は舗装がまだ完全ではなく泥水をはねたから、巨大な刷毛のようなドロよけをつけたのである。 それがいつなくなったか、市内の舗装が完備したのは昭和十年ごろだとすれば、それ以前の映画でドロよけのついた車を見ることができる。

 まことに映画は情報の宝庫である。 昭和四年はカフェーの時代である。 ライオン、タイガー、美人座など大資本のカフェーの時代で、これは昭和六年ごろ相次いで廃業した。 そのカフェーの女給で容姿と才あるものが独立して店をもって、以後バー乱立の時代となって戦後に及んだ。
 昭和四、五年は帝大出の新卒が三割しか就職できなかったことである。 だから昭和六年の満州事変は国民に歓迎されたのである。 それまでの戦争、日清日露の戦役は共に一年余りで終わっている。 満州事変も長くは続くまい。 景気はよくなると待ったら果たしてよくなって、タキシーは五十銭では乗れなくなった。 三十銭などと声をかけるものもなく、応ずるものもなくなった。 景気は回復したのである。

 エロサービスもなくなった。 そこまでしなくても客は来てくれたのである。 今も昔も景気のよしあしは学生の売行きを見れば分かる。 昭和八年工学部の学生は全員売れている。 ただし文学部はまだ売れない。 昭和六年から二十年まで足かけ十五年まっ暗だったという説が戦後もっぱらで、それは信じられてくつがえすことができなくなっているが、むろん誤りである。
 昭和八年に返りたいと昭和二十年代にはことごとに言ったではないか。 昭和八年はデパートに商品はあふれネオン輝きダンスホールは満員の好景気だったからその時代に返りたいと言ったのである。 それは昭和十四年まで続いた。 十四年はノモンハンで大敗した年であるが、国民はぼんやりとしか知らなかった。」

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posted by Fukutake at 08:55| 日記

2023年05月30日

雍正帝

「宮ア市定全集 別巻」 ー政治論集ー 岩波書店 1993年

李衛 p502〜

 「(清末)総督は一省の長官であるが、辺境や海岸地方の総督は外交事務を処理した。 中国王朝は天下国家であって、中央政府には(天下以外の外の国との)外交を担当する役所がない。 ただ外国の朝貢を扱う役所だけあるが、朝貢は外交とは言えない。 そこへ何か不満を申し立てても、総督の所へ行け、と言って追い返され、取上げて貰えない。 英国との阿片戦争*までそのような状態が続いたのである。

 日本担当の総督は浙江総督の李衛であった。 もちろん日本は当時鎖国で、幕府は国人を海外へ渡航させなかったが、もし渡航しても今度は清朝がそれを受付けなかった。 但し両国の貿易は中国人が長崎へ来て行うことを、両国ともに承認していた。 特にこの貿易は清朝にとって必要であった。 それは日本の銅を輸入して銅銭を鋳造しなければならなかったからである。 邪馬台国の時代から、日本の経済開発は次第に進み、この頃になるとその経済力は、清国としてもこれを無視することの出来ぬほどの大国に成長していたのである。

 清朝も毎年、日本への銅輸入のための貿易船を派遣したが、同時にこれによって中国の事情が日本に洩れ、明代のような海寇が侵入して来ぬかと警戒を怠らなかった。 そこで李衛も天子の意向にそい、日本の動静を探聴してこの奏摺(そうしょう)、密書を雍正帝に上(たてまつ)ったのである。 いま『雍正硃批論旨』不分巻の李衛の条に拠り、天子が朱筆で書きこんでいる部分は括弧に入れ、更に硃批とことわった。 雍正六年(一七二八)八月初八日の日付があり、日本では徳川吉宗の時代、享保十三年に当る。

 『雍正硃批論旨』は、雍正帝と地方大官との間で取りかわされた秘密文書である。 帝は地方の総督巡撫から道員*あたりまでの大官に、地方の実情を細大洩らさず親展状によって報告することを命じた。 これが奏摺であり、天子の手許へ直接届けられるもので、政府宛の公文書とは違う。 天子はこれを披閲し、朱筆をもって奏摺の紙面へ自己の意見、または秘密の指令などを書きこみ、そのまま発信人の許へ送りかえす。 これが硃批の論旨であり、発信人はこれを拝読した後、再び天子の許へ返納する。 この返納された文書が宮中に山のように積み上げられたが、帝はその中から政治の参考になりそうなものを選んで刊行させた。 これが即ち『雍正硃批論旨』であって、署名が論旨ー勅語であるにも拘らず、実は臣下からの奏摺ー上奏文の方が内容的に多いのである。 明末に『歴代名臣奏議』というものが編纂されて日本でも読まれたが、この書はむしろそれに類するものと言ってよい。」

阿片戦争* 一八三九年九月四日〜一九四二年八月二十九日 この結果清国は南京条約を締結、香港を割譲した。
道員* 省と府の間に設けられた明・清の地方官名

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posted by Fukutake at 12:08| 日記