「エンデの遺言」 ー根源からお金を問うことー 河邑厚徳+グループ現代 NHK出版
物々交換とお金 p225〜
「お金が存在しないとすると、人は自分の余った物と引き替えに自分の必要とする物を物々交換で手に入れるしかありません。 しかし物々交換には特有の困難があります 「その困難とは、私が必要とする生産物を保有する人々が必ずしも私の生産物を必要としないか、あるいは彼らが提供する商品の量に応じた私の生産物の量を彼らが必要としないか」(ゲゼル)ということにあります。 たとえ、お互いが必要とする物をちょうどそれぞれがもっていて、交換の取り決めが成り立っても、相手がほんとうに信用できるかどうか、わかりません。 それになによりも、交換者が同じときに、同じ場所にいなければ、こうした取引は不可能です。
お金が登場すると物々交換の困難は解決されます。 まず、お金によって、売るということ(販売)と買うということ(購買)が分かれます。 これは違う場所、異なったときに、売ったり買ったりできることを意味します。 これはまず、人の関係がいわば信用カネ止まりになること、別言すれば金銭上の信用が成り立つことを意味しています。 いつの時代でもそうですが、お金をもって買い物にいって、自分が何者で、信用できる人間であるかどうかを示す必要はありません。 千円札をもって買い物をするとき、名前や住所を聞かれることはないわけです。 販売者はお金を見ています。 お金そのものが信用になっていて、購買者が誰であるかに無関心でいられるわけです。 これは一面では、人が取引で匿名でいられる可能性が与えられるわけで、人間が自律的な個人でいられることの基礎となりますが他面では人の実質的な信用が金銭上の信用に切り縮められることも意味します。 そしてなによりも、違った場所、別なときに誰もが、お金を受け入れることで、お金は物々交換のときに交換者が保有する各種の財と違った、他の財よりも優れた、あるものになります。
もともと、物々交換の不都合を回避しようとしてつくりだされたお金が、単なる交換のためのための手段から、人の渇望するものに変わる可能性が与えられるのです。 お金は誰でも交換で受け入れるので、交換を利便ならしめるための手段にすぎないのに、あたかもそれ自体が目的であるかのように意識されていくわけです。 そうすると、お金をもつ者に権力が生まれます。 それはお金の権力でもあります。 お金のおかげで自立的でいられるようになりましたが、人は具体的な信用を抽象化したお金に従属するようになります。 人はお金を介して、痩せた、細められた関係でつながるようになります。 お金があれば何とでもなると、お金万能の風が支配的になります。 誰も千円札を頭にのせると千円分、利口になるとは思わないでしょうが、お金が自己目的になってしまうわけです。
お金の導入は、また取引での費用を大幅に節約することになりました。 取引相手が信用できるかどうかを調査する必要もありません。 お金自体が信用になっているからです。 それに、物々交換の煩雑さに伴う取引コストも避けられます。 つまりお金は、取引を迅速で匿名性を維持したものにする経済的な潤滑油のようなものとして振る舞うわけです。 そして、物々交換とちがって取引を個々の、小規模な取引に分割することを可能にしてくれました。」
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財サービスの生産はお金を得る手段
ますます複雑
「私の脳はなぜ虫が好きか?」 養老孟司 日経BP社 2005年
科学と自然 p213〜
「私は解剖学を専攻した。 その過程で教科書の改訂をしたことがある。 このときに過去の論文を検索した。 そこで知ったのは、膨大な知識の蓄積があるということである。 これだけのものを頭に入れることなんかとうていできるはずがない。 しかも、それは解剖学についてだけのことである。 ほかの分野も含めたら、もはや考えたくもない。
さらに当時、岩波の『科学』という雑誌のコラムに書いてあったことを記憶している。 人間の作り出した化合物は何種類あるか、という話題だった。 そこに800万と書いてあったような気がする。 もちろん、嘘八百万かもしれないのだが、これが印象に残った。
人体が自然で、その詳細を伝える解剖学の知識は、すでに個人の頭に入りきらなくなっている。 他方、人工的に人が作り出した物質が、すでにおびただしい数になっている。 こちらももちろん、個人の脳味噌には収まりきらない。
それだけの化学物質のうちどれかが、しばしば複合して、おそらく1万種類以上のタンパクを含んだ細胞に入り込む。 そこで「正確に」何が起こるか、そんなことが本当に「わかる」と思えるのだろうか。
そうした自然と人工の両者を合わせた世界とは、どれほど複雑なものか。 「科学が進めば、生命はいずれわかる」といっている人は、なんたる楽観主義者か。 そう思って、当時でもほとんど気が遠くなった。 さらに言うなら、そういう一知半解の状態で、以来、ものごとを動かしてきているのだから、結果が変になって当然だ。 いまではそう思うようになった。
そんなことはどうでもいい。 科学は「わかりたい」の上に成立するのだから、結果がどうであろうと関係はないのである。 結果的にわからなくたって、科学の知ったことではない。 わかろうがわかるまいが、科学は進歩する。 それが進歩主義者の本音だったらしい。
たしかに局地的には、知識は進歩する。 しかし、それを全部合わせてみようと試みると、そんなことは、だれも考えていないんじゃないかと疑いがただちに生じる。 だから、一番基礎的なものとして、たとえば素粒子を扱うのだ。 物理学者なら、そういうかもしれない。
しかし、素粒子が解明されても、細胞は解明されない。 分子構造が明確になればなるほど、細胞自体は複雑化する。 その理屈がわからないほど、物理学者はバカではないはずである。 細かいところまで見えたということは、裏を返せば、世界全体が大きくなったということだからである。 素粒子から生態系を構成することを考えてみればいい。 大腸菌程度の大きさのゲノムにおける、塩基配列の順列組み合わせは、10の100万乗になる。 宇宙全体の素粒子数は、ここまで行かないであろう。」
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科学と自然 p213〜
「私は解剖学を専攻した。 その過程で教科書の改訂をしたことがある。 このときに過去の論文を検索した。 そこで知ったのは、膨大な知識の蓄積があるということである。 これだけのものを頭に入れることなんかとうていできるはずがない。 しかも、それは解剖学についてだけのことである。 ほかの分野も含めたら、もはや考えたくもない。
さらに当時、岩波の『科学』という雑誌のコラムに書いてあったことを記憶している。 人間の作り出した化合物は何種類あるか、という話題だった。 そこに800万と書いてあったような気がする。 もちろん、嘘八百万かもしれないのだが、これが印象に残った。
人体が自然で、その詳細を伝える解剖学の知識は、すでに個人の頭に入りきらなくなっている。 他方、人工的に人が作り出した物質が、すでにおびただしい数になっている。 こちらももちろん、個人の脳味噌には収まりきらない。
それだけの化学物質のうちどれかが、しばしば複合して、おそらく1万種類以上のタンパクを含んだ細胞に入り込む。 そこで「正確に」何が起こるか、そんなことが本当に「わかる」と思えるのだろうか。
そうした自然と人工の両者を合わせた世界とは、どれほど複雑なものか。 「科学が進めば、生命はいずれわかる」といっている人は、なんたる楽観主義者か。 そう思って、当時でもほとんど気が遠くなった。 さらに言うなら、そういう一知半解の状態で、以来、ものごとを動かしてきているのだから、結果が変になって当然だ。 いまではそう思うようになった。
そんなことはどうでもいい。 科学は「わかりたい」の上に成立するのだから、結果がどうであろうと関係はないのである。 結果的にわからなくたって、科学の知ったことではない。 わかろうがわかるまいが、科学は進歩する。 それが進歩主義者の本音だったらしい。
たしかに局地的には、知識は進歩する。 しかし、それを全部合わせてみようと試みると、そんなことは、だれも考えていないんじゃないかと疑いがただちに生じる。 だから、一番基礎的なものとして、たとえば素粒子を扱うのだ。 物理学者なら、そういうかもしれない。
しかし、素粒子が解明されても、細胞は解明されない。 分子構造が明確になればなるほど、細胞自体は複雑化する。 その理屈がわからないほど、物理学者はバカではないはずである。 細かいところまで見えたということは、裏を返せば、世界全体が大きくなったということだからである。 素粒子から生態系を構成することを考えてみればいい。 大腸菌程度の大きさのゲノムにおける、塩基配列の順列組み合わせは、10の100万乗になる。 宇宙全体の素粒子数は、ここまで行かないであろう。」
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posted by Fukutake at 08:14| 日記