「昔ばなしとは何か」 小澤俊夫 福武文庫 1990年
「未知への好奇心」と「既知のものとの再会」 p123〜
「昔ばなしは、一種の冒険物語である。 従って、そこで聴き手が満足させられるのは、「さあ、これから主人公の運命はどうなっていくかな?」という緊張した、未知への好奇心である。 それは人を興奮させる喜びである。
だが、昔ばなしが人に与える喜びは、それだけではないことが、ここで明らかになる。 昔ばなしは、緊張に満ちた冒険物語のなかに、何度も繰り返しを挿入することによって、人に、ああ、これは知ってる、という一種の安心感を与えている。 しかも、その繰り返しは、「同じ場面は同じことばで」という鉄則にのっとっているのである。 このことによって聴き手が受けるのは「既知のものとの再会の喜び」である。 それは未知との遭遇の喜びが、興奮させる喜びであるのに対して、人の心に安らぎを与える喜びである。
昔ばなしは長い口伝えの歴史のなかで、巧まずしてそうした語り口を獲得してきた。
考えてみれば、人の一生も、このふたつの喜びに貫かれているといえるのではないか。 若いときには、未知への好奇心が強いだろう。 それだから旅に出たり、勉強したり、何かの技術を習得しようとするのだろう。 一生、そういう好奇心をもちつづけ、新しいものに挑戦する人もいるだろう。 だが、それでも、未知への好奇心だけで生きている人があるだろうか。 性質や年齢、環境によって個人差があることは当然だが、故郷をなつかしみ、むかしの友人や先生との再会を喜ばない人はあるまい。 毎朝、おみそ汁を飲まないと気がすまないというのも、一緒の再会の喜びを味わっているのであろう。 外国旅行をして、毎日、珍しい風物を見て楽しみ、外国のごちそうを食べながら、宿へ帰るとインスタントみそ汁を飲んでやっと落ち着くという人もいる。
もちろん、再会の喜びだけで生きている人もあるまい。 年をとるに従って、その喜びが大きくなっていくことはたしかだろうが、それでも、はじめて食べる珍しいお菓子を喜ぶ気持ちはあるだろう。
人は、未知への好奇心と、既知のものとの再会の喜び、このふたつのバランスのなかで生きている、といっても過言ではあるまい。 ヨーロッパでも日本でも昔ばなしは、長い年月、口伝えされているあいだに、ストーリーの内容とは別に、語り口そのもののなかに、このような人間の根源的欲求を満足させる形をつくってきたということができる。
そう考えると、現代になって昔ばなしを、本で読んだり、テレビで見たりするものとして、そういう語り口をこわしてしまうのは、あまりに残念だと言わざるをえない。 わたしたちの先祖が伝えてきた昔ばなしを、そういう深い英知もろとも、つぶしてしまうのは、現代人のおごり、とさえいわれるのであろう。」
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都市は女性に向かない
「ヒトはなぜ、ゴキブリを嫌うのか?」ー脳化社会の生き方ー 養老孟司 扶養社新書 2019年
都市での男と女 p164〜
「バリにいって帰ってこない若い女の子がいますが、あれは田舎に帰っているのではないかという気がします。 今では日本中都市になってしまっていて、帰る田舎がないから、あのようなところへ行くのでしょう。 私もブータンやベトナムに行きますが、非常にホッとします。 昔の日本の田舎そのものだからです。 田舎が世界に移り、日本全体が都市になってしまいました。
こういう環境の中では、明らかに女の人のほうが損です。 都市ができると「女・子ども」という概念ができる。 女・子どもというのは、基本的により自然に近い人を言います。 女性は月経・妊娠・出産があり、都市の高層ビルで働いていても、おなかが大きくなるのは避けられません。 では、高層ビルでお産をし、子どもを育てるかというと、普通ならそうしません。 つまり、本来人間が持っている自然は、どうしても女性のほうに強く表れてしまう。
そうすると、社会が都市化すると、どうしても女性が割りを食うことになります。 それがおそらく都市化の中の男性中心社会の基本的な始まりであったと思われます。 ブータンのように、自給自足の農村に行くと、財産は女性が相続します。 男は何をするかというと、ただ出たり入ったりするだけです。 そのように、都市化していないところではまったく状況が違う。 しかし都市化すると女性と子どもは割りを食うのです。
それがはっきり書かれている最も古い文献は『論語』です。 「女子と小人は養いがたし」。 これは都市社会における人間関係の原理をはっきり述べたもので、都市社会の原理です。 孔子は人間が意識的に設計したのでないものについては語らないという姿勢をとっています。
「怪力乱神を語らず」とは根本的にそういう意味です。 人間の自然についても孔子はまったく同じ態度をとっています。 孔子は弟子に「詩を読みなさい、詩を読めば動植物の名前を覚えるから」と言う。 つまり、孔子の相手は都会に住んでいて動植物の名前もわからない、完全な都会人だということがわかります。
だから毛沢東は孔子を批判した。 毛沢東は農村の出身で、基本的な感覚は農民です。 中国は八割が農民で、都市の住民は二割に過ぎません。 都市の住民が文字を書き、情報を発信する。 だから日本人は古くから中国は都市であると誤解してきただけです。」
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都市での男と女 p164〜
「バリにいって帰ってこない若い女の子がいますが、あれは田舎に帰っているのではないかという気がします。 今では日本中都市になってしまっていて、帰る田舎がないから、あのようなところへ行くのでしょう。 私もブータンやベトナムに行きますが、非常にホッとします。 昔の日本の田舎そのものだからです。 田舎が世界に移り、日本全体が都市になってしまいました。
こういう環境の中では、明らかに女の人のほうが損です。 都市ができると「女・子ども」という概念ができる。 女・子どもというのは、基本的により自然に近い人を言います。 女性は月経・妊娠・出産があり、都市の高層ビルで働いていても、おなかが大きくなるのは避けられません。 では、高層ビルでお産をし、子どもを育てるかというと、普通ならそうしません。 つまり、本来人間が持っている自然は、どうしても女性のほうに強く表れてしまう。
そうすると、社会が都市化すると、どうしても女性が割りを食うことになります。 それがおそらく都市化の中の男性中心社会の基本的な始まりであったと思われます。 ブータンのように、自給自足の農村に行くと、財産は女性が相続します。 男は何をするかというと、ただ出たり入ったりするだけです。 そのように、都市化していないところではまったく状況が違う。 しかし都市化すると女性と子どもは割りを食うのです。
それがはっきり書かれている最も古い文献は『論語』です。 「女子と小人は養いがたし」。 これは都市社会における人間関係の原理をはっきり述べたもので、都市社会の原理です。 孔子は人間が意識的に設計したのでないものについては語らないという姿勢をとっています。
「怪力乱神を語らず」とは根本的にそういう意味です。 人間の自然についても孔子はまったく同じ態度をとっています。 孔子は弟子に「詩を読みなさい、詩を読めば動植物の名前を覚えるから」と言う。 つまり、孔子の相手は都会に住んでいて動植物の名前もわからない、完全な都会人だということがわかります。
だから毛沢東は孔子を批判した。 毛沢東は農村の出身で、基本的な感覚は農民です。 中国は八割が農民で、都市の住民は二割に過ぎません。 都市の住民が文字を書き、情報を発信する。 だから日本人は古くから中国は都市であると誤解してきただけです。」
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posted by Fukutake at 09:32| 日記