2023年03月26日

道長頌

「大鏡の人びと」ー行動する一族ー 渡辺 実 中公新書 昭和六十二年

万寿二(一〇二五)年のこと p31〜

 「世継の言葉『まめやかに世継が申さんと思ふことは、ことごとかは。 ただいまの入道殿下の御ありさまの、よにすぐれておはしますことを、道俗男女のおんまへにて申さんと思ふが、いとこと多くなりて、あまたの帝王・后、また大臣・公卿の御うへをつづくべきなり。 その中にさいはひ人におはしますこの御ありさま申さんとおもふほどに、世の中のことのかくれなくあらはるべきなり。 つてにうけたまはれば、法華経一部をときたてまつらんとてこそ、まづ余経をばときたまひけれ。 それをなづけて五時教とはいふにこそはあなれ。 しかのごとくに、入道殿の御さかへをもうさんとおもふほどに、余経のとかるるといひつべし』

(私が本気でお話ししようと思うことは他でもありません。 現在の入道殿下(道長)の御威勢が世間第一でいらっしゃることを、道俗男女の皆さんにお話しするのが目的なのですが、出来事がからみ合っていて、多くの帝・后、それに大臣・公卿のことを語ることになりましょう。 その中でも幸福者であられる道長公のことを申す過程で、世の動きがすっかり明るみに出るでしょう。 聞けばお釈迦様も、法華経一部を説教されるために、まず他の経を説かれたとか。 それを五時教と名づけると申すではありませんか。 それと同じで、道長公の御威光を語るために、他の方々のことも申し上げる、という所でしょうか。)

 ここで世継がいう釈迦の「五時教」とは、天台宗に言う所。 釈迦の説法、それを記録したのがいわゆる「経」であるが、釈迦説法の窮極は法華経一部を説くにあり、ただ大衆の智慧が未だ低くて法華経を説くのは時期尚早であると判断された間、釈迦が平易で解しやすい所から説き始めて次第に水準を高める方便を選び、ついに人びとを法華経聴聞の水準に導いたとするもの。 そのいわば前法華経段階を四期に分け、華厳時・阿含時・方等(ほうどう)時・般若時と名づけ、最終の法華経涅槃時と合わせ「五時教」と言う。

 この五時教と同じで、私(世継)が言いたいことの肝腎要は、道長公の偉大さなのであって、他の大臣方の話はそこへ話を持って行くための方便にすぎないのです、というのである。 道長への、まことにこの上のない讃仰とうけとるべきではなかろうか。 道長への讃美はすでに『栄華物語』において十分に示されたけれども、『大鏡』は、あれではまだ十分でないと言うかのように、熱烈に道長を讃えようとするのである。

 『大鏡』の作者は、陰謀をめぐらし人を追い込みなどする、非道な側面をも含めて、道長の偉大さを認めているのではあるまいか。 道長の偉大差の中には、陰謀その他の、常識が非道とする面も含まれる、ということである。 清廉・潔白・人道主義などは、確かに人間の美徳だが、そればかりが人間の値打ちではない。 容姿のような本人のどうしようもない側面すら、当人の値打ちの一部と考えて人は不思議と思わない。 まして競争にうち勝ち障碍を排除して、栄光への道をきり拓いて行く行動力は、たとえそのために人をあざむき、人を悲嘆の底につき落とすことになるとしても、立派に人間の器量の一部ではなかろうか。 こういった人間把握の仕方を持っていたが故に、道長批判ともうけとられ得るような言葉が、かえって道長讃仰の言葉と共存し得たと、考えられる。」

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posted by Fukutake at 08:27| 日記

法廷弁護士

「古代ローマ帝国」ーその支配の実情ー 吉村忠典著 岩波新書 1997年

キケロの弾劾演説 p15〜

 「キケロがローマ最大の雄弁家の一人であったことはよく知られている。 彼は弁論の秘術を尽くして、(悪徳統治者の)ウェレスを弾劾する。 ところで、この時代は無数の「人身攻撃』が演説として語られ、パンフレットとして流布された時代であった。 人は言いたい放題のことを言って互いに罵りあった。
 キケロの名演説として現代に読み継がれている『カティリーナ弾劾演説』も、古代末期の文法家によって「人身攻撃演説」とされている。 最高の権力者といえども、「人身攻撃」を免れなかった。

 『ウェレス弾劾演説』は全編ウェレスへの人身攻撃に満ちているので、ウェレスの描写のかわりに、ウェレスの手下としての徴税人アプロニウスへの演説を引用してみる。

   『ウェレスの下劣で不潔な素行は、先刻ご承知のとおりである。 だが、何を行うにせよ、およそ破廉恥を求める唾棄すべき欲望において、ウェレスの右に出る者を、もしできるならば想像してみられよ。 それがアプロニウスである。 彼こそ、みずからその生活ぶりと身体と人相が示すように。あらゆる悪徳と卑劣の渦巻く深淵なのである。
 ウェレスはこの男をあらゆる放蕩、恥ずべき行為、神殿の略奪、不純な宴会における最大の伴侶とした。 品性の相似がこの二人を肝胆相照らす朋友とし、そのためアフロニウスは、他の者に対しては粗野かつ野蛮であったが、ウェレスだけには快適かつ利口な人間として映った。 すべての人がアプロニウスを嫌悪し、見ることすら厭がったが、ウェレスは彼なしにはいられなかった。 他の人はアプロニウスと宴会を共にするのを嫌がったが、ウェレスは彼と盃をすら共にした。 そして、アプロニウスの口と身体が放つ悪臭、野獣すら堪えることができないほどのものだと言われたあの悪臭を、ウェレスひとりは甘いもの、快いものと思った。
 ウェレスが裁判する時には、アプロニウスはその最も近くに席を占め、寝室には彼ひとり立ち入ることが許され、宴会でも主役の地位を与えられた。 とくにウェレスの大人になりかけの息子が席にある時には、アプロニウスは裸踊りを始めるのであった。』

 一人の人間の描写がこのとおりであるから、一つ一つの「事実」の描写もまた極端な筆致で描かれていることは想像されるであろう。 したがって、『弾劾裁判』から浮かび上がるウェレスのシチリア当地の全体像もきわめて歪んだものになっているかもしれない。 われわれはキケロの言説を、そのまま単純に「事実」として受けとるわけにはいかないのである。

 要するに、キケロは法学者ではなく法廷弁論家である。 あるドイツのローマ法学者の言葉をかりれば、法廷弁論家の任務は正義を求めることではなく、自分に弁論を依頼した人を勝たせることである。 そのためには、相手方に対して誠実である必要はない。」

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嘘は八百を並べて、陪審員を騙すことが「正義」ーアメリカの裁判、極東裁判。
 
posted by Fukutake at 08:22| 日記