「あたらしい哲学入門 ーなぜ人間は八本足か?ー」 土屋賢二 文藝春秋 2011年
哲学問題を解決する方法 p36〜
「どうすれば哲学の問題を解決できるかをこれから説明します。この方法は、基本的にあらゆる哲学の問題を根本的に解決する方法です。 どういう方法かというと、哲学の問題はどれも、問題として間違っているという解決です。こう言っても不可解に思えるでしょうね。 そもそも、「問題として間違っている」というのはどういうことなのか、説明が必要です。
なぜ人間は八本足か?
例を挙げます。 たとえば「なぜ人間は八本足か?」という問題を考えてみます。これは問題として間違っている例です。 つまり、この問題は、問題として成り立たない。そう思いませんか? この問題は、いくら考えても答えることができません。 なぜ答えられないかというと、僕ら能力が足りないからではありません。 ぼくらが事実を知らないからでもありません。 どんなに事実を調べても、どんなに該博な知識をもっていても、そもそも問題として成り立っていないんだから、答えようがありません。 そう思いますよね。 いいですか?
では、「なぜ人間は八本足か?」という問題が成り立たない理由はなんでしょうか? それは簡単です。 「なぜ」と問うときには、「なぜ」という疑問詞の後に、事実として成り立っている文が来ないといけないからです。たとえば今日は晴れていますよね。 それなら「なぜ今日は土砂降りなのか?」という問題は成り立ちません。問題として理解することができません。 「なぜ」の後に事実を表す文が来ないといけないという規則に従わなくてはいけないとぼくらは考えています。 その規則に反しているから、疑問文として理解不能な、意味のないものになってしまうんです。
問題として成り立っていないんだから、これに答えるということもできません。問題が理解できないんだから、どうすれば答えたことになるのかということも理解できません。 いいですか? すべての哲学の問題は、問題として間違っているという主張は、哲学の問題はどれも、「なぜ人間は八本足か?」というような形をしているという主張なんです。 「なぜ人間は八本足か?」という問題が、問題として間違っている、問題とは言えない、ということは一目瞭然ですね。これについて納得していただけると思うんですね。 でも、たとえは「いかに生きるべきか?」という問題や、「空はなぜ青いのか?」といった問題のどこが問題として間違っているのかと言われても、納得できませんよね。」
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ウィトゲンシュタイン風に言えば、哲学の問題は、言葉として表される。ゆえに言葉という限界がありうる。問題が存在するかどうか、すら言語に依存するなら、永久に言語の曖昧さという領域に囚われざるを得ない。
死の効用
「ココロとカラダを超えてーえろす 心 死 神秘」 頼藤和寛 ちくま文庫 1999年
死の功徳 p170〜
「死というものにも功徳がないわけではない。
それは世俗の一切をー学問、芸術、名誉、職業、地位、業績、子孫、文化、歴史、人類その他、我々が日頃大層に思いなして振りまわされているあらゆる観念と存在の混合体を一挙に無意味化する。 ほとんどのものは死の前で無力である。
真理は、愛は、至高の善は、永遠だといわれるが、そもそもそれらはなんのための真善美か? その「何」の方が無化するのである。ルイ十何世だかの言葉として、apres moi, le deluge が知られている。「我れ亡きあとには、大洪水であれ何であれ」。
我々が父祖の代々にわたって営々と築きあげてきたあらゆる区別、貴賎貧富・正邪善悪・美醜巧拙その他の価値的二分法がすべて百円均一に売り払われてしまう。 これは絶対の公平さがある。 これほど徹底した公平はない。 人間が寄ってたかって勝手に決めた申し合わせの総体が、死という巨大なマカダムローラーによって一様均一に均(なら)される。
それは恐るべき無道徳であり不条理であるが、そもそも道徳や条理というのが世俗間内部でのみ意味をもつ約束事にすぎなかったのである。 人間が何をとりきめようと何を夢想しようと、全くお構いなしに死のローラーが転がっていく。
これほど小気味のよく無慈悲に、かつ公平に地均しする契機を世界は他にもたない。
死の功徳は、これにとどまらない。それは、もし死がなければどうなるか、をちょっと考えるだけで分明となる。
生物には「死の戦略」なるものがあって、各発達段階の死亡率はそれなりの適応的意味を有している。 限られた生息領域と生活資源、および分布密度が生殖可能期間と組み合わされて厳密に数学的な解析を許す合理性でその種(スピーシーズ)の死をデザインしている。多くの個体には死んでもらわねばならないのである。 そして全ての個体が最後に死なねばならない。 さもなければ種全体が亡びる。この本体が亡びないためには、たくさんの幼生が間引きされ、かつ生殖期を越えた成体にも増大していく死亡率を課さねばならない。
老年の意義とは、人間社会内部でこそあれこれのメリットを考え得るにせよ、生物学的には用済みの娑婆塞ぎ以上のものではない。 それどころか食物と酸素を一人前に費消する危険な存在である。
人間は社会と文化とヒューマニズム、そして余剰の生産力のおかげで姥捨山を復活させずにすんでいる。 しかし、これも多くの老人が七、八十歳でポロポロ死んでいくからこそ今日なんとか保てている制度なのだ。実際、不老長生が実現するなら、まさに人類の危機であろう。
畢竟、我々は死によって脅かされ、かつ救われているのだ。」
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死の功徳 p170〜
「死というものにも功徳がないわけではない。
それは世俗の一切をー学問、芸術、名誉、職業、地位、業績、子孫、文化、歴史、人類その他、我々が日頃大層に思いなして振りまわされているあらゆる観念と存在の混合体を一挙に無意味化する。 ほとんどのものは死の前で無力である。
真理は、愛は、至高の善は、永遠だといわれるが、そもそもそれらはなんのための真善美か? その「何」の方が無化するのである。ルイ十何世だかの言葉として、apres moi, le deluge が知られている。「我れ亡きあとには、大洪水であれ何であれ」。
我々が父祖の代々にわたって営々と築きあげてきたあらゆる区別、貴賎貧富・正邪善悪・美醜巧拙その他の価値的二分法がすべて百円均一に売り払われてしまう。 これは絶対の公平さがある。 これほど徹底した公平はない。 人間が寄ってたかって勝手に決めた申し合わせの総体が、死という巨大なマカダムローラーによって一様均一に均(なら)される。
それは恐るべき無道徳であり不条理であるが、そもそも道徳や条理というのが世俗間内部でのみ意味をもつ約束事にすぎなかったのである。 人間が何をとりきめようと何を夢想しようと、全くお構いなしに死のローラーが転がっていく。
これほど小気味のよく無慈悲に、かつ公平に地均しする契機を世界は他にもたない。
死の功徳は、これにとどまらない。それは、もし死がなければどうなるか、をちょっと考えるだけで分明となる。
生物には「死の戦略」なるものがあって、各発達段階の死亡率はそれなりの適応的意味を有している。 限られた生息領域と生活資源、および分布密度が生殖可能期間と組み合わされて厳密に数学的な解析を許す合理性でその種(スピーシーズ)の死をデザインしている。多くの個体には死んでもらわねばならないのである。 そして全ての個体が最後に死なねばならない。 さもなければ種全体が亡びる。この本体が亡びないためには、たくさんの幼生が間引きされ、かつ生殖期を越えた成体にも増大していく死亡率を課さねばならない。
老年の意義とは、人間社会内部でこそあれこれのメリットを考え得るにせよ、生物学的には用済みの娑婆塞ぎ以上のものではない。 それどころか食物と酸素を一人前に費消する危険な存在である。
人間は社会と文化とヒューマニズム、そして余剰の生産力のおかげで姥捨山を復活させずにすんでいる。 しかし、これも多くの老人が七、八十歳でポロポロ死んでいくからこそ今日なんとか保てている制度なのだ。実際、不老長生が実現するなら、まさに人類の危機であろう。
畢竟、我々は死によって脅かされ、かつ救われているのだ。」
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posted by Fukutake at 07:40| 日記