2023年03月22日

きっと会える

「あの世からのことづてー私の遠野物語ー」松谷みよ子 筑摩書房 

カヤのすみで p167〜

 「横須賀の三笠通りに古くから足袋屋と洋品屋をやっている店があった。階段が箪笥になっている古風なつくりで、木造ながらしっかりした三階建であった。
 この店の主人が出征したのは昭和十九年のことであった。南方へいった、というだけしか消息は判らなかった。残されたはなさんは十歳の男の子をかしらに、九歳、七歳、それに夫の留守に生まれた赤ん坊を育てながら、物資も乏しくなったこととて店は開けるより閉めている日の方が多く、姑、小姑をかばって留守を守っていた。
 ところが昭和二十年七月七日。七夕というのに長男の正坊が疫痢で亡くなった。夫の留守に長男を死なせたのだから、はなさんは勿論のこと、家中がどれほど力を落としたかしれない。それでも泣いてばかりいられない。はなさんは残された三人の子供のためにも、心をはげまして働いていたのである。

 その朝もそうだったという。もう八月に入っていた。カヤの中で目を覚ましたはなさんは、寝ている子供たちを起こさないようにそっとカヤを出ると、自分のところだけ吊り手を外し、下へ降りた。朝食の支度をすませ、子供たちを起こそうと三階に戻ってくると話し声がする。どうやらそれは、ひとところ落としたカヤのあたりから、ボソボソと聞こえてくるのだった。
 部屋に入ると話し声はぴたりと止む。みれば子供たちはぐっすり眠っている。
「いったい誰の声だろう」

 どきんとした。どう考えても、あれは出征した夫の声としか思えない何やら話しかけているのに返事をしているのは、正坊。この間死んだ正坊の声だ。
 次の朝も、その次の朝も、落としたカヤのすみで、ボソボソと語りあう声は続いた。姑や小姑をそっと呼んできたが、他の人の耳には聞こえない。

 やがて終戦。追いかけるように戦死の公報が入って、話し声は途絶えた。
 フィリッピンで死んだらしいという。それも定かではない。しかしはなさんは、あの八月の朝、あのとき夫は戦死したのだ。そしてまっすぐに魂は帰ってきた、ひと月前に死んだ正坊と話していたのよね、といまもいうのである。
 死出の旅路は、父と子とふたりで越えたであろうか。きっとそうにちがいない。」

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posted by Fukutake at 07:32| 日記

いつ死ぬのか

「三島由紀夫全集 34 評論 X」 新潮社 1976年

獨樂 p483〜

 「周知のごとく、文士生活をいていると、時折奇妙な訪問に悩まされるものである、そしてさういふ話は、聴手にとつて慨して面白いものではない。話者には眞劍な問題でもあらうが、聴きやうによつては、大したこともない名聲や人氣を衒つてゐるやうにもとれるからである。しかしこの話は多少趣がちがふと思はれるので、しまいまで辛抱していただきたい。
 春の午後、一人の男子高校生が、三時間の餘も塀外に立つてゐると家政婦が言つた。…私は丁度外出の仕度中であつたので、それでは玄關の椅子に待たせておけ、外出間際の五分間だけ會ふと傳えてくれ、と家政婦に言つた。
 仕度ををはつて玄關に出てみると、少年は椅子にきちんと坐ってゐて、尋常にお辭儀をした。「五分間しか會へない」と私は念を押した。そして自分も椅子に對座して、どこから来たか、ときいた。少年はS市の名を言つた。明日はS市に歸らねばならない、今日中にどうしても先生に會ひたいと思つて来た。と言つた。

 さういふ人は澤山ゐるから、さういふ人にいちいち會つてゐたら、私の時間がなくなることを考へたか、ときくと、尋常にあやまつた。態度擧措には何一つ不審なところはなかつた。丸刈りにしてゐて、目が大きく澄んでゐて、頰は紅潮してゐる。黒い學生服は衿元のホックまできちんと掛けている。…
「何か文學の話で来たのかい」
「さうぢやありません」と少年はきつぱり言つた。
「何の話がしたいんだ」
「前に手紙を書きました」
「さあ、おぼえてゐないね。讀んだかもしれないが、手紙は澤山来るから。その手紙の寫しは持つているかい」
「いや、家に置いて来ました」
「それじゃわからないな」
私は時計を見て。やや性急にかううながした。
 「何しろ時間がない。ぢや、君のしたい質問がいくつかあつたら、その中で一番聞きたい質問を一つだけしてごらん、何でも答へてあげるから」少年はなほ默つてゐた。もう一度時計を見た。

「あります」「じゃ、一番ききたいことを一つだけきいたらどうだ」少年の目があからさまに私を直視した。
「一番ききたいことはね、…先生はいつ死ぬんですか」

 この質問は私の肺腑を刺した。」

(初出)「辺境」昭和四十五年九月

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昭和四十五年十一月二十五日 割腹自殺した
posted by Fukutake at 07:27| 日記