2023年03月20日

このあいだの戦争

「日本に古代はあったのか」 井上章一 角川選書 平成二十年

「このあいだの戦争」 p112〜

 「京都人は「このあいだの戦争」と言われると、太平洋戦争のことが脳裏にうかばない。 それよりも、応仁の乱(一四六七〜一四七七年)を想いおこすと、よく言われる。 彼らは、しばしばこう語りあうのだ、と。
「このあいだの大戦(おおいくさ)でな、えっ、太平洋戦争のことかって、ちゃうちゃう、ほら応仁の乱のことやがな。 あれで、うちもえらいめにおうたんどっせ」

 それだけ、京都では歴史がいきづいている。 あるいは、歴史とともにあることを、ほこりに思っている。 そんな京都人の自負心に、敬意をはらった、一口咄(ばなし)である。 あるいは、それを茶化すための座興に、この咄はなっているというべきか。
 だが、応仁の乱を「このあいだの戦争」だと実感している人は、ほとんどいない。 由緒のある一部の寺でも、わずかに伝承されてるぐらいか。

 ただ、幕末におこった蛤御門の変(一八六四年)でやけたという家は、たくさんある。
「うちは、あれでもやされた」。「ああ、うちもそうや、うちもあれでやけたんや」。 とまあ、そういったやりとりは、じっさいにしばしば聞こえてくる。
「このあいだ」が応仁の乱というのは、おおげさすぎる。 しかし、蛤御門の変なら、まんざら現実味のない咄でもない。 代々、その被害を語りついできた家は、けっこうある。 そのていどには、京都人も歴史のなかでくらしているということか。

 ただ、応仁の乱が京都、いや日本の歴史においてもつ意味は、あなどれない。 私は、あの内乱をさかいに、歴史は大きくゆれうごいたと思っている。 鎌倉幕府の成立や明治維新などより、はるかに大きな社会変動をもたらしたのだ。
 応仁の乱で、室町幕府はおとろえた。 その後は、各地を大名たちがおさえるようになる。 大名どうしがあらそう、いわゆる戦国時代がはじまった。

 しかし、大名がのちに支配した諸地域の多くは、さまざまな権門勢家の管理をうけていた。 皇室や貴族、あるいは大寺院などがおさめる荘園として、それぞれが貢物を彼ら権門へさしだすしくみに、なっていたのである。
 たとえば、某荘は東大寺の荘園となっていた。 となりの某荘は、摂関家藤原なにがしへ、貢物をとどけている。 そのとなりは皇室領。 さらに、そのまた隣は、神護寺の配下へおかれているというように。 権門のおさえる荘園と、政府の国衙領がモザイク状にいりくんで、地域をかたちづくっていたのである。
 いずれにせよ、中央政府は多くの荘園をもつ親分衆によって、運営されていた。 それは、広域暴力団のリーダーたちが国をうごかしてしたようなものだと、言ってもよい。」

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posted by Fukutake at 07:57| 日記

老人大国

「小説を読みながら考えた」 養老孟司 双葉社 2007年

歳をとる p226〜

 「私の年齢になると、人にもよるだろうが、人生は不連続である。 人生のある時期のことは、思い出すよすががないと、まったく記憶から外れている。 そのころのことをいわれると、「あれは別な人です」といいたくなることがある。 私だって真面目に勤めに出ている時期もあったが、そのころになぜあんなに心配事が多かったか、いまではまったく理解できない。 死がより現実的になるということは、そういうことであろう。 心配したとことで、死んだらどうなるものでもない。 歳をとることの利点は、おそらくそこであろう。 二十年先を気に病んだところで、死んている可能性のほうが高いのである。 過去についても、似たようなものである。 後悔したところで、いまさらどうなるものでもない。 死んでしまえば、後悔する当人がいなくなる。

 いまの世の中を見ていて、なんとなく思うことがある。 なぜこんなに年寄りがはびこっているのだ。 どちらかといえば七十歳に近い人たちが世間の中枢にあって、メディアで悪くいわれたりしている。 私もその年齢だが、もはや公職はない。 まったくの私人である。 それで当然で、そもそも世間の真ん中に出る体力なんかない。 山奥で虫を捕っているくらいがせいぜいである。 公職にあるお年寄りは、行き掛かりで世間に出ずっぱりになったのかもしれないが、それならお気の毒というしかない。

 日本の近代史で、この国の元気がよかった時代が二度ある。 一度は明治維新、二度目は終戦後である。 わかりきったことだが、両方の時期とも、若い世代が社会の中心にあった。 明治はそれで仕方がなかったし、戦後は追放があった。 それでいいので、乱暴な言い方をすれば、この国を元気にするには、公から年寄りを吹き飛ばせばいいのである。 具合の悪いことも怒るだろうが、元気が出ることだけは間違いない。 日本の出生率は世界でも指折りに低い。 そりゃ当たり前で、年寄りは未来がなのだから、そういう人たちがトップに立っていれば、自然に未来はなくなる。

 「自分の子どもは、自分が生まれた時代よりも、悪い時代を生きる」。 数年前の調査だが、アンケートにそう答えた人が八割あったという。 若い世代に聞くと、やはり八割が未来に希望を持っていない。 それなら徹底的につじつまが合っている。 親は未来を悲観しており、子どもは未来がないと感じている。 それは日本人の八割である。 だから江沢民は、二十一世紀には、日本なんて国は消えているといった。 未来がないと思うなら、創りゃいいじゃないか。 アンケートに「子どもたちは悪い時代を生きる」と書く親も親なら、未来がないといっている子も子である。 それでもどちらに「より責任がある」かというなら、親であろう。 子どもによい未来がないと思うなら、なぜよい未来をもたらすよう、努めようとしないのか。 いまの世に中を作ったのは、若者ではない。」

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そりゃ無くなるわ

posted by Fukutake at 07:54| 日記