「エントロピーとは何だろうか」 小出昭一・安孫子誠也 著 岩波書店 1985年
熱と温度変化 p19〜
「状態量と内部エネルギー
われわれは、ある物体が何リットルの体積をもっているとか、温度が何度であるとかいって、その物体の「状態」を表す。 この体積とか温度のような量のことを「状態量」と総称する。 それが変われば状態が変化したことになる。 物体がその内部に保有するエネルギーのことを内部エネルギーというが、これも状態量である。 五キログラムの水の温度をセ氏一〇度から九〇度にするには四〇万カロリー(約一七〇万ジュール)の熱を加えればよいから、九〇度の水五キログラムは一〇度のときにくらべて一七〇万ジュールだけ内部エネルギーを余分にもつといった具合である。
いま、温度という状態量を変化させるために熱を加える、という例をあげた。 熱というのは状態を変化させる原因ではあるが、状態量ではないのである。 先生『温度計と体温計はどう違うか』、生徒『はい。 温度を測るのが温度計で、熱を測るのが体温計です』、というのはあまり面白くない笑い話だが、俗に使う「熱を測る」という表現や、「熱がある」「熱をもっている」という言い方が、物理学や化学では正しくない。 熱と温度とは区別することになっているのである。 「風邪をひいて熱がある」という代わりに「風邪をひいているために体温が高い」というのが物理では正しい表現である。
なぜそんなうるさいことをいうのであろうか。 昔は科学者たちですらこの区別がはっきりしていなかったくらいで、間違えやすいのである。 さきに述べた例を用いるなら、水をお湯にするのに一七〇万ジュール(四〇万カロリー)の「熱」を加えてもよいが、実は同じだけの「仕事」を加えてやってもよいのである。 ジュールの実験のように水をかきまわしてもそれは可能であるし、電熱線を入れて電力を注ぎこんでもよい。 電熱の場合は熱を加えているのではないか、とも考えようが、前にも述べたように、それは回転の重くなった発電機のする仕事にほかならないのである。 電流の流れをベルトにたとえ、発電所の発電機はこのベルトを動かしているモーターだと考えることができるが、そうすると、電熱器はベルトを摩擦して熱を出させるように設置したヤスリの役をしているのである。
とにかくそんなわけで、ある物体が熱をどれだけもっているかとか、仕事をどれだけためこんでいる、という表現は不正確なのである。 どちらも内部エネルギーという形になって物体内に含まれるようになっているからである。
なお、水をかきまわす場合には、最初は加えた仕事は渦をまいて回転する水の運動エネルギーになるが、この段階ではまだ内部エネルギーとよぶのは不適切である。 目にみえるマクロの(巨視的な)運動の力学的なエネルギーは内部エネルギーとはいわないからである。 この水をしばらく放置すると、マクロには水は静止するが、運動エネルギーは目にみえない分子の不規則な運動のそれに転化し、かきまわす前よりも水分子のミクロな(微視的な)運動が活発になる。 これをわれわれは温度の上昇と観測し、内部エネルギーの増加と表現するのである。」
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ソクラテスの死
「今日の政治的関心」 田中美知太郎 文藝春秋社 昭和六十一年
常識の立場 p129〜
「常識とは何か。 誰でも知っていること、あるいは知っていなければならないことと言ったらいいかも知れない。 しかし「知っていること」を厳密な意味にとると、正確な知識を誰にでも期待できるかどうか疑問になる。 多くの人が知っていることは、実際はただそう思っているだけのことで、何も知ってはいないのだというようなことである場合が少なくない。 このような無知に気づかせる仕事を、ソクラテスは神によって命じられたものと信じてこれを世の指導者たちに試みて、殺されるような結果を招いた。
自分が知っていると思いこんでいることを、そうではないのだと指摘されたりするのは、誰もよろこばないというわけである。 しかしいずれにしても、「知っている」ということと「知っていると思いこんでいるだけ」とは全く違うのである。 われわれ自身の場合、この二つがうまく一致することもあろうが、また、一致しないでずれのあることも極めて多いと言わねばならない。 常識について考える場合、それが知識と一致しているか否かの区別をつけて置くことが必要なのだ。
ソクラテスの名前を出したので、これに関連してわが国の学問的常識のあり方を考える上に多少とも参考になるかも知れない事例を、まず一つ挙げておく。 ある新書本のなかにソクラテスが自殺したと書かれているのを発見してわたしは驚いた。 その編者はわたしの知り合いでもあったので、すぐに電話したところ、かれはその誤りをすぐにはさとらず、一応承りおくような返事をしたので、わたしは更に驚かねばならなかった。 欧米の学問的常識からすると、学者たる者がこのような誤謬に気づかないなどとはあり得べからざることだからである。 しかしわが国ではこれは専門の学者だけが知っている特殊な知識であって、また一般の学問的常識にはなっていないのかも知れない。 しかしその専門家たちがやはり同じような間違いをしているのを発見して、わたしの驚きは絶望に変わってしまった。 西洋史や西洋古代史の専門の学者がどうしてこんな間違いを平気で書くことができたのか。 ひとはわが国の学問について疑惑をもたざるをえないだろう。
プラトンの『パイドン』を一度でも読んだことのある者ならこんな間違いをするはずはないのである。 更にまた『ソクラテスの弁明』や『クリトン』の読者なら、法廷におけるソクラテス陳述が裁判官たちを怒らせ、結果的に死刑の宣告を招くようなことになったし、獄中のソクラテスがクリトンのすすめを拒否して、アテナイ法廷の判決にしたがって、アテナイ人の命ずるままに死ぬという決意を翻そうとはしなかったことを知っているはずである。 ただ『ソクラテスの弁明』を後から一度検討してみると、無罪をかちとるための弁論としては失敗であり、ソクラテスは故意に死刑を招いたようなところもあるから、ソクラテス自殺説というものも古代から存在したのである。 そしてそのような解釈の可能性を知っていることは、専門家の知識のうちになければならないだろう。 しかしそれは一般人が知っていなければならない常識の知識のうちには属さないのである。 しかし無論わが国の専門家たちがおかした誤りは常識的な誤り、教科書的な誤りであって、専門学者の高級な解釈に属するようなものではないのである。」
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常識の立場 p129〜
「常識とは何か。 誰でも知っていること、あるいは知っていなければならないことと言ったらいいかも知れない。 しかし「知っていること」を厳密な意味にとると、正確な知識を誰にでも期待できるかどうか疑問になる。 多くの人が知っていることは、実際はただそう思っているだけのことで、何も知ってはいないのだというようなことである場合が少なくない。 このような無知に気づかせる仕事を、ソクラテスは神によって命じられたものと信じてこれを世の指導者たちに試みて、殺されるような結果を招いた。
自分が知っていると思いこんでいることを、そうではないのだと指摘されたりするのは、誰もよろこばないというわけである。 しかしいずれにしても、「知っている」ということと「知っていると思いこんでいるだけ」とは全く違うのである。 われわれ自身の場合、この二つがうまく一致することもあろうが、また、一致しないでずれのあることも極めて多いと言わねばならない。 常識について考える場合、それが知識と一致しているか否かの区別をつけて置くことが必要なのだ。
ソクラテスの名前を出したので、これに関連してわが国の学問的常識のあり方を考える上に多少とも参考になるかも知れない事例を、まず一つ挙げておく。 ある新書本のなかにソクラテスが自殺したと書かれているのを発見してわたしは驚いた。 その編者はわたしの知り合いでもあったので、すぐに電話したところ、かれはその誤りをすぐにはさとらず、一応承りおくような返事をしたので、わたしは更に驚かねばならなかった。 欧米の学問的常識からすると、学者たる者がこのような誤謬に気づかないなどとはあり得べからざることだからである。 しかしわが国ではこれは専門の学者だけが知っている特殊な知識であって、また一般の学問的常識にはなっていないのかも知れない。 しかしその専門家たちがやはり同じような間違いをしているのを発見して、わたしの驚きは絶望に変わってしまった。 西洋史や西洋古代史の専門の学者がどうしてこんな間違いを平気で書くことができたのか。 ひとはわが国の学問について疑惑をもたざるをえないだろう。
プラトンの『パイドン』を一度でも読んだことのある者ならこんな間違いをするはずはないのである。 更にまた『ソクラテスの弁明』や『クリトン』の読者なら、法廷におけるソクラテス陳述が裁判官たちを怒らせ、結果的に死刑の宣告を招くようなことになったし、獄中のソクラテスがクリトンのすすめを拒否して、アテナイ法廷の判決にしたがって、アテナイ人の命ずるままに死ぬという決意を翻そうとはしなかったことを知っているはずである。 ただ『ソクラテスの弁明』を後から一度検討してみると、無罪をかちとるための弁論としては失敗であり、ソクラテスは故意に死刑を招いたようなところもあるから、ソクラテス自殺説というものも古代から存在したのである。 そしてそのような解釈の可能性を知っていることは、専門家の知識のうちになければならないだろう。 しかしそれは一般人が知っていなければならない常識の知識のうちには属さないのである。 しかし無論わが国の専門家たちがおかした誤りは常識的な誤り、教科書的な誤りであって、専門学者の高級な解釈に属するようなものではないのである。」
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posted by Fukutake at 07:23| 日記