「人生があなたを待っている(2)」ー「夜と霧」を越えてー クリングバーグ 赤坂桃子訳 2006年
主張、論争 p348〜
「ホロコーストを生き抜いた著名な作家でノーベル平和賞受賞者のエリ・ヴィーゼルは、ホロコーストの記憶を風化させず、世界中でこのような大量殺戮が二度と起きないようにと力を注いだ。 彼に手紙を書いて集団的な罪について質問すると、このテーマについてはすでに書いているから、と短いメモが返ってきたが、そこにはこう書き添えられていた。 「私はヴィクトール・フランクルに会ったことはありません。 でもあなたが彼について書いてくださるのを嬉しく思っています。」
のちになって、私は彼がすでに二〇〇〇年一月にすばらしい演説をしていたと知った。 ヴィゼール教授はドイツ連邦議会に招かれ、一ユダヤ人としてスピーチを行ったのだ。 彼はほかにも多くの人たちがナチの犠牲になったことを認めていたー「私はこうのように申し上げたいのです。 すべての犠牲者がユダヤ人だったわけではないけれども、すべてのユダヤ人は犠牲者だったと」。 この連邦議会における彼の演説は全文を読むべきなのだが、ここではその一部を引用したい。
『私はここだけでなく、自分が行く先すべてで繰り返してきたことをここでも申し上げなければなりません。 私は集団的な罪という考え方に与しません。 罪があるのは、罪そのものとそれに加担した者のみで、まだ生まれていなかった者、あるいはそのまた子供たちにはもちろん罪はありません。 殺人者の子供は殺人者ではなく、ただの子供です。 そして皆さんの子供は、その多くが非常によい子たちなのです。 私も彼らの何人かを知っています。 少数ですが私の学生だった者もいます。 とても優秀で、やる気があり、同時に、これは十分理解できるのですが、苦しんでいました。 彼らは罪悪感をもつ必要はないのに、どういうわけか引け目を感じているのです。 彼らがなんとかして自分の国、その国民の名誉を挽回しようとしているのはすばらしいことです。 なんでも心に働きかけてくるものすべてに彼らは関心を示します。 彼らはイスラエルに行って建設を手伝い、人間の権利の侵害に対しては断固たる態度で臨んでいます。 なぜなら、彼らー皆さんの子供たちは、この暗黒の時代を忘れないことが重要であると思っているからです。』
ヴィクトール・フランクルがもしも生きてこのスピーチを聞いたなら、自分がホロコーストの熱がまだこもっている灰の中で一九四五年に表明し、数十年間にわたって繰り返し主張してきたのと同じ見解を、もうひとりの著名な生存者が公にしたことを喜んだに違いない。」
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共同責任
「まともな人」 養老孟司 中公文庫 2003年
テロの論理 p166〜
「ナチス・ドイツについて、ヴィクトール・フランクルはいう。 共同責任などというものはない。 両親、兄、妹、妻を収容所で亡くし、アウシュヴィッツを神秘的とでもいうしかない運命のもとに、生きて逃れた人がそういう。 人間のなかに誠実な人と、不誠実な人があるだけである。 遺憾ながら、誠実な人のほうが数が少ない。 フランクルはそうもいう。 世界はおおかた不誠実な人でいまも埋め尽くされているのであろう。
共同責任とは、ナチスの場合ならもちろんドイツ国民全体のことである。 だからテロはアフガン人の共同責任ということでもないし、タリバン全員の責任というわけでもない。さらにフランクルはいう。 私の知っていた最後の収容所長は、自分の小遣いから囚人用の薬品を買っていた。 収容所から家に帰ると、妻にその日の出来事を語り、ともに泣いていた医師もいた。 私が親米とか反米という言葉を好かない理由は、おわかりいただけるであろう。
私の大学の学生たちに、昨年あるビデオを見せた。 イギリス人の若夫婦が子どもを作ろうと思い、妊娠し、出産するまでを記録した、BBC作品である。 五十分なので、一時間半の授業では余りが出る。 その時間を使ってビデオの感想を書いてもらった。 薬学部なので女の子のほうが多かった。レポート中身はよく似ていて、ほとんどの女子学生があれも知らなかったです、これもはじめて気がついたと、妊娠と出産についてさまざまな新知識を得たと書いてくれた。
驚いたのは、男子学生のレポートである。多くの学生が、似たようなビデオを高校の保健の時間に見た、とくに新しいこともなく、あんなことならすでに知っている、と書いたのである。
テロなら知っている、アフガンなら知っている…。 日本の普通の家庭では、結婚後の夫から妻への愛情は横ばいだが、妻から夫への愛情はひたすら落ち続ける。 その理由は「夫が子育てに協力しなかった」である。 問題は、産む性への理解である。 でも結婚前の若者たちが、「そんなことなら知っている」という。
9.11に関する論考が、いまひとつピンと来なかったのは、そういうことであろう。 どうせ対岸の火事なのである。 ニューヨークのある著名な編集者が、欧州では反テロ攻撃に反対する人が多いと聞いて、あの現場を見なかった人間に、攻撃反対を語る資格はないといった。 人々の気持ちは、そこまで狭くなってしまったのである。
フランクルならそうはいわなかったであろう。 テロであれ、反テロであれ、人間のすることだ。 人間には誠実な人と、不誠実な人がある。 小さな声で、ただそうつぶやいたかもしれない。
われわれはなにごとであれ、「すでに知っている」世界に住んでいる。 何も知ってやしないのである。 どこかの国に爆弾を落とせば、そういう視野狭窄がなくなるのか。 逆にそういう種類の人が増えるばかりである。 先のニューヨークの編輯者は、自分がテロリストと似た感情を抱いていることに気がついていないのであろう。」
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GHQの戦後政策は全日本共同責任論に基づいていた。
テロの論理 p166〜
「ナチス・ドイツについて、ヴィクトール・フランクルはいう。 共同責任などというものはない。 両親、兄、妹、妻を収容所で亡くし、アウシュヴィッツを神秘的とでもいうしかない運命のもとに、生きて逃れた人がそういう。 人間のなかに誠実な人と、不誠実な人があるだけである。 遺憾ながら、誠実な人のほうが数が少ない。 フランクルはそうもいう。 世界はおおかた不誠実な人でいまも埋め尽くされているのであろう。
共同責任とは、ナチスの場合ならもちろんドイツ国民全体のことである。 だからテロはアフガン人の共同責任ということでもないし、タリバン全員の責任というわけでもない。さらにフランクルはいう。 私の知っていた最後の収容所長は、自分の小遣いから囚人用の薬品を買っていた。 収容所から家に帰ると、妻にその日の出来事を語り、ともに泣いていた医師もいた。 私が親米とか反米という言葉を好かない理由は、おわかりいただけるであろう。
私の大学の学生たちに、昨年あるビデオを見せた。 イギリス人の若夫婦が子どもを作ろうと思い、妊娠し、出産するまでを記録した、BBC作品である。 五十分なので、一時間半の授業では余りが出る。 その時間を使ってビデオの感想を書いてもらった。 薬学部なので女の子のほうが多かった。レポート中身はよく似ていて、ほとんどの女子学生があれも知らなかったです、これもはじめて気がついたと、妊娠と出産についてさまざまな新知識を得たと書いてくれた。
驚いたのは、男子学生のレポートである。多くの学生が、似たようなビデオを高校の保健の時間に見た、とくに新しいこともなく、あんなことならすでに知っている、と書いたのである。
テロなら知っている、アフガンなら知っている…。 日本の普通の家庭では、結婚後の夫から妻への愛情は横ばいだが、妻から夫への愛情はひたすら落ち続ける。 その理由は「夫が子育てに協力しなかった」である。 問題は、産む性への理解である。 でも結婚前の若者たちが、「そんなことなら知っている」という。
9.11に関する論考が、いまひとつピンと来なかったのは、そういうことであろう。 どうせ対岸の火事なのである。 ニューヨークのある著名な編集者が、欧州では反テロ攻撃に反対する人が多いと聞いて、あの現場を見なかった人間に、攻撃反対を語る資格はないといった。 人々の気持ちは、そこまで狭くなってしまったのである。
フランクルならそうはいわなかったであろう。 テロであれ、反テロであれ、人間のすることだ。 人間には誠実な人と、不誠実な人がある。 小さな声で、ただそうつぶやいたかもしれない。
われわれはなにごとであれ、「すでに知っている」世界に住んでいる。 何も知ってやしないのである。 どこかの国に爆弾を落とせば、そういう視野狭窄がなくなるのか。 逆にそういう種類の人が増えるばかりである。 先のニューヨークの編輯者は、自分がテロリストと似た感情を抱いていることに気がついていないのであろう。」
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GHQの戦後政策は全日本共同責任論に基づいていた。
posted by Fukutake at 08:17| 日記