日本の素朴主義の復活

「宮�ｱ市定全集　２　中国史」　岩波書店　１９９２年

素朴主義と文明主義再論　p３３６〜

　「日本はもともと素朴主義の民族であったが、明治以降、国力の進展と共にその変質が始まった。不幸なことに一番早く腐敗し出したのが軍部であった。殊に支那事変と称せられる中国との交戦以後、権力が軍部に集中すると、本来は素朴主義の中核たるべき本山の軍部が、国民の困苦を他処にして、一路堕落への淵へ落ち込んで行った。無名の師を起こしては、代わる代わる凡庸な将軍連が出征し、戦線を拡げて帰って来ては大きな勲章にありついた。これは中国で科挙と並行して行われた軍人の科挙、すなわち武挙の精神なのである。これは満洲事変の火元である石原莞爾がすっかり失望した。現役の師団長であった彼が京都大学在郷将校団に招かれて来て講演し、上級の軍人精神が如何に堕落しているかを、無念の涙をおさえながら告発した。その師団長の車の傍に、東條方の憲兵が絶えず付き纏って監視していたのも異様な光景であった。

　一方蒋介石の国民政府は、日本軍と交戦する度に強くなった。どうやら日本が放出した素朴主義を吸い取ったかに見えた。揚子江下流の要衝を次々に日本軍に占領されながら、上流の重慶に立て籠り、見事に国内の統一を維持して、度重なる空襲にも堪え抜き、徹底抗戦を続けた。私の友人、東亜同文書院教授の小竹文夫などは、古典の文句を引いて、沈竃鼃（ちんそうあ）を産すれども、民叛反せず、とは正にこの事だと賛歎したものだ。これは戦国の趙襄子が居城を敵に水攻めにされ、民家の窯が浸水して蛙が住みつくまでになっても人民に叛意がなかったという故事である。併し日本軍が敗退して、久しぶりに繁華な大都会を奪回すると、もういけない。今まで国難に際して引っこんでいた文明主義が一挙に表面に吹き出してしまったのである。共産軍の侵攻にあたって、まことにあっけなく大陸の全領土を譲り渡さねばならなかった。

　国民政府に代わった中国共産党は、辺境の地に雌伏している間に、中国が忘却していた素朴主義を復活したかに見え、これこそ中国の文明主義社会に対する救世主かと思われた。ところがこの共産党も、前の国民政府と同様、海岸地域の文化先進地帯に足を踏み入れると、たちまちどこかおかしくなってきた。党の首脳からは何度か形を変えては、整風運動が発令された。四人組時代の紅衛兵騒動も本来の趣旨は、一種の整風運動であり、私に言わせれば素朴主義への復活を目的としたものの如くであった。ところがそれが文明主義の社会の中で動き出すと、収拾のつかぬ大混乱を世上に巻き起こすだけの結果となったのである。

　敗戦直後の日本は総てのものを失った廃墟の上に立たされた。東亜におけるどの民族よりもみじめな状態におかれた。併し困苦の中にも何とか立ち直ったのである。…

　資源のない日本は、物資を輸入して商品を生産して輸出するより外に手段はない。ところが戦後三十余年を経て日本の生産力は、アメリカ本国、EC諸国にまで進出してその市場を席巻するに至った。日本の社会は戦時中の腐敗した首脳が敗戦によって一掃されると、本来の面目を取り戻した。素朴主義はまだ日本社会の底辺に温存されていたのである。」

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素朴主義は文明主義に勝る。
　

死者を愛する

「雪国の春　柳田國男が歩いた東北」　柳田國男　角川ソフィア文庫　

　盆燈篭（どうろう）　p１３７〜

　「江戸では青山辺の御家人などが、近世まで盆の月には高灯籠をあげていた。将軍某駒場の狩の帰るさに、その光の晴夜のほしのごとくなるを賞でたという話が残っている。

　百年前の『秋田領風俗問状答書』の絵に見えている通りの昔風の燈篭は、陸中に入ってからしだいにこれを見かけるようになった。寺の境内に立てた高い柱には、昼の間は白い幡を掲げて置く例もあるが、尋常民家の燈篭木に至っては、いずれも尖端を十字にして、杉の小枝を三房結えてある。以前はその木が必ず杉であったことを、これだけでも示すのみならず、村によっては今なお天然の杉の木を、梢ばかり残して柱にしているものさえあった。

　今では不幸のあった翌々年の盆まで、この燈篭を掲げる習いになっている。空を往来する精霊のためには、まことに便利なる澪標（みおつくし）であるが、生きた旅人にとってこれほどもの寂しいものはない。ことには白い空の雲に、または海の緑に映じて高く抽け出でて立つのを見ると、立ち止まってはこれら労働に終始した人々の、生涯の無聊さを考えずにはおられなかった。閉伊の吉里吉里の村などは、小高い所から振り返ってみると、ほとんど一戸として燈篭の木を立てぬ家はない。どうしてこのようなおびただしい数かと思うと、やはり昨年の流行感冒のためであったのだ。

　仏法が日本国民の生活に及ぼした恩沢が、もし一つであったとするならば、それはわれわれに死者を愛することを教えた点である。供養さえすれば幽霊もこわくはないことを知って、われわれは始めて�視S駆逐の手をゆるめ、同じ夏冬の終わりの季節をもって、親しかった人々の魂を迎える日と定めえたのである。合邦の浄瑠璃にもあるごとく、血縁の深い者は死ねば恐ろしくなるものだなどといいつつも、墓をめぐって永く慟哭するような、やさしい自然の情をあらわしうることになったのも、この宗教のおかげといわねばならぬ。

　鵜住居（うすまい）の浄楽寺は陰鬱なる口碑に富んだ寺だそうだが、自分は偶然その本堂に前に立って、しおらしいこの土地の風習を見た。村で玉瓔珞と呼んでいるモスリンを三角に縫った棺の装飾、または小児の野辺送りに用いたらしい紅い洋傘、その他いろいろの記念品にまじって、新旧の肖像画の額が隙間もなく掲げてある。その中には戦死した青年や大黒帽の生徒などの、大勢で撮った写真の中から、切り放し引き伸ばしたものもあるが、他の大部分は江戸絵風の彩色画であった。不思議なことには近ごろのものまで、男は髷があり女房や娘は夜着のような衣物を着ている。ひとりで茶を飲んでいる所もあり、三人、五人と一家団欒の態を描いた画も多い。後者は海嘯で死んだ人たちだといったが、そうでなくとも一度にためておいて額にする例もあるという。りっぱにさえ描いてやれば、よく似ているといって喜ぶものだそうである。こうして寺に持ってきて、不幸なる人々はその記憶を、新たにもすればまた美しくもした。まことに人間らしい悲しみようである。」
（大正九年九月「東京朝日新聞」）

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時代に埋もれた人々の影