「われわれ自身のなかのヒトラー」 ピカート 佐野利勝訳 みすず書房
現実をうしなった人間 p92〜
「ドイツ人が平和の時代にことさら戦争を追求するからといって、それはなにも彼らが好戦的であることを意味するものではないし、同様に、彼らが戦時中に平和を希求するからとていって、それがドイツ人の平和愛好心を意味するものでもない。ドイツ人が平和愛好的な顔をするときには、それは彼らが真に平和をねがっていることを意味するのではなくて、実は、そのなかに彼らが生きている戦争状態が彼らに厭わしいと言うことを意味するに過ぎないのである。いや、それも戦争そのものが彼らには厭わしいからというのではなく、戦争がまさに現在しているものだからなのである。現在しているところのものを、ドイツ人達は好まないのだ、… たとえ、その現在せるものが戦争であれ、或いは平和であれ。だから、ドイツ人の平和愛好主義に信頼するのは、間違いなのである。
何によらず、現に存在しているものはすべてドイツにとり価値を持たないということ、… これは本質的な問題である。ヴィルヘルム二世は、彼が現に存在していたときには、人々から、皇帝などいなければよいのにと思われたのであった。デモクラシーも、それが現に存在していた時には、無くもがなと思われた。そして、国家社会主義が現在していた時には、人々はそれから逃れようと努めたのであった。幻惑されないようにしていただきたい、… ヒトラーに敵対したドイツ人たちの大抵の者は、単に彼らが現に彼らの眼前にあるところのもの、まさに現在しているところのもの総てのものの敵対者なるがゆえにのみ、ヒトラーに敵対したのである。彼らがヒトラーに反抗したからといって、そのことはなにも、これらのドイツ人たちにとって果してヒトラーが厭わしいものであるか否かについて明らかにするものではないのである。もしもヒトラーが政権を掌握していなかったとすれば、彼らはヒトラーを待ち望んだであろう。事実、デモクラシーが存在していたあいだは、彼らはヒトラーの出現を待望したのであった。
したがって、ドイツ人が現に眼前にある現実に対して何らかの関係をもったことはいまだかつてないということ、これは実に特徴的だといわねばならない。何時の場合でも、過去のものか或いは未来のものか、とにかく現在していないものだけが、価値をもっていたのだ。しかしながら、未来が現在となったあかつきには、人々はその未来のなかに生きようとはしなかった。人々はそれが現在でないかぎりにおいてのみ、未来を欲したのである。
かくて人々は、彼らが承認しないところの現在と、やはり真剣にそれを待ち望んでいるのではない未来とのあいだの一つの空虚な空間のなかで、何ということもなくだらだらと生きながらえているのである。
明確な生活をどこにも持たないこのような人間が、ともかくも一つの明確な現実を提供してくれる独裁者の命令に附和雷同しやすいのは明白なことである。」
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現代人は、差当っては独裁者の断乎たる態度が有難いのだ。
2023年03月14日
変わることを望むと言う願望
posted by Fukutake at 09:42| 日記
秀吉の手紙
「太閤の手紙」 桑田忠親 文春文庫 1985年
刀狩りと検地 p156〜
「秀吉は、小田原落城、関八州平定の後、北条氏の旧領に家康を移し、天正十八年(一五九〇)の七月十七日、小田原を出発し、九月朔日(ついたち)、京都に凱旋している。
次の手紙は、その間、八月十二日付で、家臣浅野弾正少弼長吉に与えたものである。
なほ以て、其の趣、其の口へ相働く衆、残らず、念を入れ申し届くべく候。返事、同前に申し上ぐべきものなり。
わざと仰せつかはされ候。
一、九日、会津に至り御座を移され、御置目(おんおきめ)など仰せつけられ、其の上、検地の儀、会津は中納言、白川同じく、其の近辺の儀は備前宰相に仰せつけられ候事。
一、其のもと検地の儀、一昨日仰せいだされ候ごとく、斗代などの儀、御朱印の旨にまかせ、いづれも所々、いかにも念を入れ、申しつくべく候。若し、麁相(そそう)に仕り候はば、各々落度たるべく候事。
一、山形出羽守、並びに伊達妻子、はや京都へさしのぼせ候。右両人の外、国人妻子の事、いづれも京都へ進上申す族(やから)は、ひとかど、尤もにおぼしめさるべく候。さなきものは、会津へ差越すべきよし申しつくべき事。
一、仰せいだされ候趣、国人並びに百姓どもに、合点ゆき候やうに、よくよく申し聞かすべく候。自然相届かざる覚悟の輩(ともがら)これあらば、城主にて候はば其のもの城へ追い入れ、各々相談し、一人も残しおかず、なでぎりに申しつくべく候。百姓以下に至るまで、相届かざるについては、一郷も二郷も、悉くなでぎりに申しつくべく候。六十余州堅く仰せつけられ、出羽奥州まで、麁相にはさせらるまじく候。たとえ亡所になり候ても、くるしからず候間、其の意を得べく候。山の奥、海は櫓櫂のつづき候まで、念を入るべきこと専一に候。自然各々退屈においては、関白殿御自身御座なされ候ても、仰せつけらるべく候。きつと此の返事然るべく候なり。
八月十二日(朱印)
浅野弾正少弼どのへ
これは自筆の消息ではなくて、朱印状である。
刀狩と検地は、秀吉の天下平定の根本的方策であった。刀狩は戦乱の根源を断ち、検地は課税の公正、国家経済の基本である。次に、最上出羽守義光と伊達政宗など降参した奥州諸大名の人質を京都にのぼらせることを指図している。それから、国人や百姓に対する宣撫と罰則である。まず納得のいくように話すこと、それでもきかない者は、一郷でも二郷でも、なで斬りにせよ、と命じている。随分ひどい政治のように思われるが、当時の現実は、近代人の考えるような生やさしい状態ではなかったことは確かだ。武断政治でなければ、天下は泰平にならなかったのである。日本六十余州の政道のためには、出羽奥州の端だからとて、いい加減には出来なかったのだ。たとえ亡所になっても苦しくない。そのくらい決心を必要とした。もたもたしていると、関白殿下御自身出馬しても糾明を遂げると意気まいている。」
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従わなければ斬れ
刀狩りと検地 p156〜
「秀吉は、小田原落城、関八州平定の後、北条氏の旧領に家康を移し、天正十八年(一五九〇)の七月十七日、小田原を出発し、九月朔日(ついたち)、京都に凱旋している。
次の手紙は、その間、八月十二日付で、家臣浅野弾正少弼長吉に与えたものである。
なほ以て、其の趣、其の口へ相働く衆、残らず、念を入れ申し届くべく候。返事、同前に申し上ぐべきものなり。
わざと仰せつかはされ候。
一、九日、会津に至り御座を移され、御置目(おんおきめ)など仰せつけられ、其の上、検地の儀、会津は中納言、白川同じく、其の近辺の儀は備前宰相に仰せつけられ候事。
一、其のもと検地の儀、一昨日仰せいだされ候ごとく、斗代などの儀、御朱印の旨にまかせ、いづれも所々、いかにも念を入れ、申しつくべく候。若し、麁相(そそう)に仕り候はば、各々落度たるべく候事。
一、山形出羽守、並びに伊達妻子、はや京都へさしのぼせ候。右両人の外、国人妻子の事、いづれも京都へ進上申す族(やから)は、ひとかど、尤もにおぼしめさるべく候。さなきものは、会津へ差越すべきよし申しつくべき事。
一、仰せいだされ候趣、国人並びに百姓どもに、合点ゆき候やうに、よくよく申し聞かすべく候。自然相届かざる覚悟の輩(ともがら)これあらば、城主にて候はば其のもの城へ追い入れ、各々相談し、一人も残しおかず、なでぎりに申しつくべく候。百姓以下に至るまで、相届かざるについては、一郷も二郷も、悉くなでぎりに申しつくべく候。六十余州堅く仰せつけられ、出羽奥州まで、麁相にはさせらるまじく候。たとえ亡所になり候ても、くるしからず候間、其の意を得べく候。山の奥、海は櫓櫂のつづき候まで、念を入るべきこと専一に候。自然各々退屈においては、関白殿御自身御座なされ候ても、仰せつけらるべく候。きつと此の返事然るべく候なり。
八月十二日(朱印)
浅野弾正少弼どのへ
これは自筆の消息ではなくて、朱印状である。
刀狩と検地は、秀吉の天下平定の根本的方策であった。刀狩は戦乱の根源を断ち、検地は課税の公正、国家経済の基本である。次に、最上出羽守義光と伊達政宗など降参した奥州諸大名の人質を京都にのぼらせることを指図している。それから、国人や百姓に対する宣撫と罰則である。まず納得のいくように話すこと、それでもきかない者は、一郷でも二郷でも、なで斬りにせよ、と命じている。随分ひどい政治のように思われるが、当時の現実は、近代人の考えるような生やさしい状態ではなかったことは確かだ。武断政治でなければ、天下は泰平にならなかったのである。日本六十余州の政道のためには、出羽奥州の端だからとて、いい加減には出来なかったのだ。たとえ亡所になっても苦しくない。そのくらい決心を必要とした。もたもたしていると、関白殿下御自身出馬しても糾明を遂げると意気まいている。」
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従わなければ斬れ
posted by Fukutake at 09:37| 日記