2023年03月13日

ツチヤに居場所を

「ツチヤの口車」 土屋賢二 文藝春秋 2005年

商売と勉強 p138〜

 「最近、ファミリーレストランで仕事をすることが多い。 夕食をとった後、コーヒーを飲みながらパソコンで文章を書いたり勉強したりしているのだ。
 お前はホールレスか、と言われるかもしれないが、家はある。 ただ家はここ数十年、圧制下にあり、しかも現在戒厳令が敷かれているため、安心して仕事をすることができない状況なのだ。

 家と比べ、ファミリーレストランは食べ物はおいしいし、仕事を言いつけられることも叱られることもないから、のびのび仕事ができる。 これでテレビとピアノがあれば申し分ない。
 何日もファミリーレストランで夜を過ごした後、入り口の貼紙に初めて気がついた。 それにはこう書いてあった。
「客席における長時間の<勉強><パソコンの使用>は固くお断りします。 諸事情をご理解の上、何卒ご協力を賜りますようお願い申し上げます」

 驚いた。 ファミリーレストランというのはてっきり勉強するところかと思っていた。 子どものころから現在に至るまで「もっと長時間勉強しろ」と注意され続けてきたが、この店が長時間勉強するのを固く断っているとは知らなかった。
 しかも「諸事情」を理解せよと言う。 「諸事情」が何を指すのか不明である。 食事をするための店で学生が勉強するにはそれなりの事情があるのだろうが、その事情を理解せよということではあるまい。 ましてわたしの家に戒厳令が敷かれているという事情を客は理解せよということではあるまい。

 もしかしたら経営者が昔「長時間勉強しろ」と言われて苦しんだという事情のことかもしれない。 だが、おそらくは「長時間居座られると商売にならないからやめてくれ。 うちは金を稼ぎたいんだ」という事情を理解せよと言いたいのであろう。
 もし長時間居座ることがいけないなら、なぜ勉強とパソコンを目の仇にするのだろうか(わたしを狙い撃ちしているのかもしれない)。 ほとんどの客は長時間にわたって無駄話をしているのだ。 長時間瞑想にふけったり、長時間愛を語り合ったり、新聞や娯楽本を長時間読むのはいいのか。 無駄に時間を費やしているという点では、勉強するのと大差はないはずだ。

 店の立場もよく分かるが、勉強するのが営業に差し支えるなら、<一時間いくら>と料金を決めるか、あるいは、カウンターを増やして勉強席を設ける方法が撮れないのだろうか。

 ただ、どうせ勉強する学生は少ないのだ。 勉強する学生を追い払うのではなく、逆にお菓子を出すくらいのことをしてもいいのではないか。 学生でもないのに勉強しているわたしのような者には肉の量を増やしてほしいものだ。」



posted by Fukutake at 07:22| 日記

遅かりし清朝改革

「宮ア市定全集 別巻」 ー政治論集ー 岩波書店 1993年

康有為 p338〜

 「陳独秀、呉虞(ごぐ)らが民年初年に展開した、いわゆる思想革命運動は、伝統的な儒教の家族主義、そこから来る専制主義の学説に反抗したのであったが、それは単に空疎な過去の亡霊に戦いを挑んだのではない。 もっと切実な現在の問題を捕らえてのことであった。 当時、共和国が成立しても、一般知識人の頭脳は依然として旧式で、新国体、新制度を理解することができなかった。 儒教主義の教養もなお権威を保ち、愛国の名の下に国粋を維持しようとする運動が一方に存在し、ともすれば進歩が逆転して反動化する危険があった。 その中心人物はなんと、戊戌の政変で大立者であった康有為であり、陳独秀らはこの保守主義に対抗して闘争しなければならなかったのである。

 康有為はもともと中国をもって日本のような立憲君主国にしたい考えであったから、革命派の孫文とも対立の関係にあった。 ところが時勢が先へ進んで共和国が出現したので、今度はせめて中国の伝統的な儒教を国教として保存しようと考え、中華民国憲法にこれを条文として書きこむよう、政府に働きかけていた。 陳独秀らの反孔教運動はこれに対抗して展開されたものであった。 論議の結果、輿論は翕然*として思想革命を支持した。 そして康有為は結局、旧人物たることを自ら暴露する結果に終わったのであった。

 しかしながら、康有為もその二十年前においては最も急進的な思想界の指導者であり、遂に光緒帝を動かして戊戌の変法に踏みきらせたほどであったが、頑迷派の弾圧にあい、危険分子として追放されたのであった。 二十年の歳月は、嘗ての最先端思想家を、進歩を妨害する老朽政略家に変形させた。 恐らく康有為自身がそれほど変わったのではあるまい。 この間における中国の変りようが甚しかったのである。

 康有為は一八五八年の生れ。 広東省南海県、すなわち現今の広東市の人で、世々儒者の家であるという。 そこで十分な古典教育を受け、更に西洋の学問をも修め、両者を折衷して孔子改制や、大同の新学説を唱えて世に知られた。 かれは儒教を新しい時代に適合させるためにその内容に新解釈を加え、孔子自身が改革者として遠大な理想を抱いており、その理想は現今の社会主義をも含むものであると説いた。 一方、現実の政治上では一大改革を実施し、日本の明治維新を中国に再現しようとして、一八八八年以来、たびたび光緒帝に上書して献議する所があったが、多くは途中で握り潰されてしまった。 しかし国際情勢は日に緊迫し、一八九七年にはドイツ軍の膠州湾占領が起こり、中国の領土分割の危険さえ感ぜられてきたので、朝廷の大臣も何らかの措置を講じなければならぬことを覚るようになり、その上書を光緒帝に取次ぎ、その著書を献上せしめた。 上書の自由を得た康有為は一八九八年旧暦正月八日、国政全般にわたって改革を行ない、変法自強を計るべきことを上奏したが、これが即ち「統籌全局疏*(とうちゅうぜんきょくそ)」と称せられるものである。

 この上書によって光緒帝の心が動き、進歩派の軍機大臣翁同龢(おうどうわ)の勧めもあり、康有為を召見して直接その人物を見、遂に変法の方針を固めるに至ったのである。」

翕然* (きゅうぜん)多くのものが一致して一つになるさま
統籌全局疏* 「全局面を綜合的に規画するための上書」

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posted by Fukutake at 07:18| 日記