2023年03月12日

廃墟からの復活

「街道をゆく夜話」 司馬遼太郎 朝日文庫 2007年

世界にただ一つの神戸 p248〜

 「なにか、励ませ、という。 そんな電話が、「神戸っ子」の大谷さんからかかってきたとき、その声に、雄々しい思いがした。 灰塵のなかで、物をー未刊の号をー生みあげようという。 それも、隣人にことばをかけよ、という。
 当方は大阪にいて、連日、神戸の惨禍の報道に漬かっていて、自分が被災者でないことが申しわけないという気持ちでいたときに、そんな電話がかかってきた。

 たまたま、毎月一回連載している「風塵抄」の原稿を書いていたときだった。 十年ほど前、「神戸っ子」の小泉美喜子さんと、生田神社だったかのまわりの小路をぬけて通りにでようとしているとき、彼女が、
「神戸が大好きです」
 といった。 つづいて、あまり神戸がいいために、よそにお嫁に行っても帰って来る人が多いんです、と彼女がいったので、私はユーモアだと思い、笑った。
 ところが、小泉さんは、真顔だった。
「ほんとです」
 彼女はいった。
 そんなことを思いだしつつ、「風塵抄」を書きはじめ、あの惨禍のなかで、神戸の人達が示した尊厳ある存在感に打たれた、という旨のことを書いた。

 家族をなくしたり、家をうしなったり、途方に暮れる状態でありながら、ひとびとは平常の表情をうしなわず、たがいにたすけあい、わずかな救援に、救援者が恥じ入るほどに感謝をする人も多かった。
 神戸に、自立した市民を感じた。 世界の他の都市なら、パニックにおちいっても当然なのに、神戸の市民はそうではなかった。

 無用に行政を罵る人もまれだった。 行政という”他者”の立場が、市民にはよくわかっていて、むりもないと考える容量が、焼けあとのなかのひとびとにあるという証拠だった。
 扇動をする人も、登場しなかった。 たとえそんな人がいても成熟した市民を感じさせるここの人達は、乗らなかっただろう。
 えらいものだった。

 この精神は、市民個々が自分のくらしを回復してゆくことにも、きっと役立つにちがいない。
 神戸。
 あの美しくて、歩いているだけで気分のよかった神戸が、こんどはいっそう美しく回復する上で、この精神は基本財産として役立つに相違ない。
 神戸。
 と私はつぶやきつづけている。
 やさしい心根の上に立った美しい神戸が、世界にただ一つの神戸が、きっとこの灰塵の中からうまれてくる。」

(「月刊神戸っ子」一九九五年三月)

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posted by Fukutake at 06:31| 日記

戦時下ウィーンでの青春

「人生があなたを待っている(2)」ー「夜と霧」を越えてー クリングバーグ 赤坂桃子訳 2006年

エリー*の青春 p290〜

 「(戦時中の)エリーの写真には、オランダ人たちと森や山に出かけて撮影したものが含まれている。 遠出は厳しく禁じられていたというのに、彼らの顔には不安の陰がみじんもない。 ほんとうに楽しみ、ふざけ、陽気に笑い合っていたのだろう。

 科長(ナチ党員)は、私(エリー)が厳しく禁止されていたにもかかわらずオランダ人たちと一緒にいるのを何回も目撃していたの。 爆撃後、ポリクリニックの瓦礫を片づけていると、彼がやって来て彼らにも私たちにも全員にたばこをくれたわー戦争捕虜にもね。 彼はまっとうな人間らしさを失っていなかったわ… 砂糖やなにかを手に入れて、私たち全員に配ってくれたこともあったぐらいで。

 フランクルはうなずいた。「ほんものの人間は、たとえ極限の状態にあっても、自らの人間性を完全に打ち消すことはできないーそれは内面から滲み出してくるんだよ。 人間を片方の目だけで見ると、罪のない人びとを罪のある視線で見てしまうことになる」
 エリーは若い世代に話題を転じた。 「私が話してきたようなことすべてを若い人たちは経験しなければならないのよ。 「自分たちはよくて、彼らは悪い」なんて簡単には言えないはずよーそれは間違っている」。 フランクルも、ここぞとばかり口を挟む。 「人間には二つの「種族」しかないんだよーまっとうな人間と、そうでない人間と。 両者を隔てる境界線は、あらゆる国家、宗教、種族を越えて存在する。 ホロコーストに加担する危険から完全に自由な国家などないのだ。 いかなる国家も(自分たちの善良さを)誇り、ドイツやオーストリアを見下し、彼らは人種差別主義に安易に屈したのだと糾弾することはできない。 「うってつけ」の情況と独裁者がそろえば、どの国だってホロコーストの首謀者となりうるのだ」

 少女の頃、エリーは歯医者になるのが夢だった。 だがポリクリニックでしばらく働いたのち、彼女はそれを断念した。 歯学部に入学するお金がなかったからである。 給料は生活するにはとても足りず、エリーはさらに収入を得るために技術を習得し、副業を始めた。 夜になると粗い撚り糸を使って網の買物袋をつくったのだ。 当時は包装などしないに等しかったから、人びとはなんでも手に入れたものは持参の買物袋に入れて持ち帰った。

 「たしかに割りのいい仕事だったけれど、指のためにはよくはなかったわー終始、血を流していたし、痛いのなんのって、毎朝、手術に備えて徹底的に手を洗わなければならなかったわ。」

エリー* ヴィクトール・フランクルの妻
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ホロコーストの悲劇はどの国にでも起こりうる。

posted by Fukutake at 06:27| 日記