2023年03月10日

芭蕉対蕪村

「與謝蕪村の小さな世界」 芳賀徹 中公文庫 

芭蕉と蕪村 p41〜

 「『奥の細道』冒頭の「月日は百代の過客にして行きかふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらへて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖(すみか)とす、古人も多く旅に死せるあり」という、あの有名なマニュフェストを引くまでもなく、人生を旅と観じ、実際に旅に明け暮れて旅に死んだ「俳聖」芭蕉と、「都の風流」に遊び、桃源の路地の細さのその奥に籠る蕪村とは、人生に対する、詩における、姿勢ないしスタイルが、まるでちがっていた。「旅人と我名よばれん初しぐれ」と出立ち、野ざらしを覚悟の旅に人生をその最大の振幅において体験し、なまの自然と生命と直接に切り結んだ芭蕉と、『おくのほそ道』にからめて「旅人よ笠島かたれ雨の月」と呼びかけ、「荏苒*(じんぜん)として去つくす日にゆふべをかこち、蕭条とふりくらす雨に暁をしらず、おこたりがちなる老の身をうらみて、ひとり几上に肘する」(「花鳥篇序」)蕪村とー 両俳人の詩へのへだたりはその約百年の歳月のへだたりほど大きかったのである。

 それはー

行春にわかの浦にて追付(おいつき)たり   芭蕉

ゆく春や逡巡として遅ざくら         蕪村

行春や鳥啼き魚に目は泪           芭蕉

ゆく春やおもたき琵琶の抱きごころ      蕪村

塚もうごけ我泣こゑは秋の風         芭蕉

かなしさや釣の糸吹あきの風         蕪村

あかあかと日は難面(つれなく)もあきの風  芭蕉

金屏(きんびやう)の羅(うすもの)は誰(た)があきのかぜ 蕪村

といったそれぞれの周知の名句をいくつか並べてみるだけでも察せられることであろう。天と地とが、そしてその天地とそのなかに包摂された旅姿の詩人とが、コスミックな共感を交わし、交響する、動的な、パセティックでさえある詩美の世界は、蕪村のものではない。蕪村の句には、行くはるに追いついたり、泣く声をあげたりする詩人のすがたや、そのなまな情動が投入されていない。かすかにロマネスクな人物の存在が、「おもたき琵琶」や「釣の糸」や「金屏の羅」によって暗示されているばかりであり、それらの物はまたわずかに淡く細く薄く季節の光や風を映しているにすぎない。「塚も動け」とか「あかあか」とかの激しい直接性はもちろんなく、情景と情調のすべては、「逡巡として」、「おもたき」、「かなしさや」といった言葉の示唆するとおり、じっとたたずんで沈静し、あるいは消え失せんばかりにかすかに震えているのみである。」

荏苒* なすこともなく、段々に月日がたつさま。

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俳句の大宗匠 vs 屈託した市井の異才
posted by Fukutake at 07:48| 日記

清朝の金庫事情

「清朝史通論」 内藤湖南 東洋文庫 平凡社

「清朝衰亡論」より 清朝の財政 p350〜

(支那にて1911〜1912年に辛亥革命が勃発した。明治四十三(1911)年の京都帝大における講演録から)

 「今の(清朝)帝室はどのくらいの内帑金(ないどきん)を持つて居るか、それは能く分からぬけれども、何日かの新聞に依ると、袁世凱が皇室の財政を調べた処が金銀が何千万両かあつたと云っているが、あれは有り得べきことであると思ふ。どうしてさういふ風に帝室の御手元金が豊かになるかといふと、これは常例の収入の外に帝室には色々な収入がある。詰り帝室が官吏から賄賂を取るのである。一体賄賂といふものは官吏が人民から取るのであるが、支那では帝室が御先になつて賄賂をとる。何か地方官の大きな官吏になるともちろん定まつて賄賂を納める。殊に前の西太后の時などには、御機嫌を損なわない様に年々進物を献上する。勿論其の進物といふのは金である。それから知県等が北京に来て拝謁を仰せ付けられる。即ち召見を賜ふといふ、それが官吏の進級の資格の一つになつて吏部の記録に載る。併し只では拝謁が出来ないので、この拝謁には料金を要する。さういふ風にして官吏より直接に納める賄賂は莫大なものであつて、さういふことからして、朝廷は政府の収入に全く関係のない金を沢山持つて居る。それであるから今の皇太后が何千万の金を持つて居ても別に不思議でも何でもない。これが帝室費の収入の一つの膨張である。
 
  それから中央政府の費用も矢張り近年大変に殖えて居る。明治二十六年頃に八千九百万両程の財政であつた時には、その中五千三百万両位迄は中央政府の会計に這入るものであつた。その他の三千六百万両といふものが地方の政府に這入ることになって居つた。処が最近になつて三億万両の歳出入になつても、地方の財政に於ては八千九百万両の時代と大差はない。それに中央政府の経費は常に膨張して財政の大部分を使つて居る。それに支那では殊に三十三年の北清事変以来年々中央集権に傾いて、随つて中央財政の膨張を来して居る。

 国運の衰微
 かういふ風に財政が中央ばかり膨張し、尚又其の帝室の収入が大変に膨張して来るといふ時には、何時でもそれに続いて来るものは何かといふと、詰り其の朝廷の滅亡である。それで此度の事件でもどういふ風に変化して行くか、財政上からも兵略上からも予言が出来にくいけれども、兎に角今日の処、税制やら幣制やらすべてを整理し、財政上の方式を根本より大改革をするに非ざれば、縦令此度朝廷が兵力を以て革命党を圧服しても、今の朝廷は遠からず財政の為に二進も三進も往かなくなつて、御叩頭(おじぎ)をしてしまはなければならぬことになる。それは日本でも同じである。嘗て勝伯爵が、徳川幕府が倒れたのは、あれは薩長が倒したのではなく、どうしても徳川幕府の末年には財政が持たなくなつて居つたから、自然に倒れなければならぬ様になつて居つたのであるといふことを云はれたさうである。これは勝伯爵の如き、徳川の末路に居つて、殊に財政の点に注意した人の言として、大なる教訓を遺したものと思ひます。今日の支那も矢張り其点に於て徳川幕府と同じ様な運命になつて居つて、どうしても財政に於て持ち切れなくなつて居るのであります。」

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政治の土台は経済。
 

posted by Fukutake at 07:43| 日記