2023年03月09日

金のためより、人の評価

「宮本常一著作集 21」 庶民の発見  未来社

物いわぬ人々 p20〜

 「あるとき、私は西条高原の西高屋の近くをあるいていたことがある。そのとき川の岸で石垣をつんでいる石工としばらくはなしをした。ヒガンバナが咲いていたから九月ごろだったろう。何となく野をあるいてみたくなって、急に汽車をおりて田圃の中をぶらぶらあるいて行ったのである。すみきった空にチーンチーンと御影石にタガネをうちこむ音がひびいて心にとまったので、そのほうへあるいて行った。石工たちは川の中で仕事をしていたが、立って見てると仕事をやめて一やすみするために上がって来た。私はそこで石のつみ方やかせぎにあるく範囲などきいてみた。はなしてくれる石工の言葉には、いくつも私の心をうつようなものがあった。

 「金をほしうてやる仕事だが決していい仕事ではない。ことに冬など川の中でやる仕事は、泣くに泣けぬつらいことがある。子供は石工にはしたくない。しかし自分は生涯それでくらしたい。田舎をあるいていて何でもない田の岸などに見事な石のつみ方をしてあるのを見ると、心をうたれることがある。こんなところにこの石垣をついた石工は、どんなつもりでこんなに心のこめた仕事をしたのだろうと思って見る。村の人以外には見てくれる人もいないのに…」と。「しかし石垣つみは仕事をやっていると、やはりいい仕事がしたくなる。二度とくずれないような…。そしてそのことだけを考える。つきあげてしまえばそれきりのその土地とも縁はきれる。が、いい仕事をしておくとたのしい。あとから来たものが他の家の田の石垣をつくとき、やっぱり粗末なことはできないものである。まえに仕事に来たものがザツな仕事をしておくと、こちらもついザツな仕事をする。また親方どりの請負仕事なら経費の関係で手をぬくこともあるが、そんな工事をすると大雨の降ったときはくずれはせぬかと夜もねむれぬことがある。やっぱりいい仕事をしておくのがいい。おれのやった仕事が少々の水でくずれるものかという自信が、雨のふる時にわいてくるものだ。結局いい仕事をしておけば、それは自分ばかりでなく、あとから来るものもその気持ちを受けついでくれるものだ。」

 石工はそんなはなしをしていた。平凡だが、この人たちはこの人たちなりに一つの人生観を持っている。そしてそういうものが世の中をおしすすめて行っているのだと思った。つみあげられた石の一つ一つの中には、きっとそんな心がひそんでいるのであろう。また、「いい仕事をして人にほめられた時くらいうれしいものはない。しかしほめられなくても自分の気がすむような仕事はしたいものだ」ともはなしていた。誰に命令せられるのでもなく、自らが自らに命令することのできる尊さをこの人たちは自分の仕事を通して学びとっているようである。

 権威のまえには素直であるが、権力には屈しない。そういう人間的な生き方を持っていると、この人たちにとって恐ろしいものは、権威であり真理だけであるようだ。そうしたものをこの人たちは無意識のうちに持っている。そしてその総和が目のまえにある「かたちある文化」なのだと思う。」
初出 「広島の農村・2、昭和55年7月」
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posted by Fukutake at 07:26| 日記

現代日本の科挙

「科挙(かきょ)」ー中国の試験地獄ー 宮崎市定 著 中公文庫

まえがき より

 「日本で入学試験地獄の声が聞こえ始めたのはいつ頃からであろうか。二十世紀の初頭に生まれた私は実のところ、この言葉をそれほどしみじみとは味わっていない。私が育った村の小学校を卒業してから、近くの町の旧制中学に入る年、この中学校では始めて入学試験というものを行なったが、それは別に志願者をふるいおとすためではなく、単に試みにやってみたにすぎない。何となればだれひとり落第する者はいなかったからである。それどころではない。この中学校は地方の有志が県当局に運動して無理にたてた学校なので、いつも応募者が少なくて、毎年三学期になると近在の小学校の先生は、わらじばきで卒業生の家を訪ねて歩き、父兄に子弟を中学校へ出すように勧誘しにまわったものである。

 中学校を卒業したその年、新しく設立された旧制松本高等学校に入ったが、私が競争らしい競争を経験したのはこの時だけである。もっとも、当時は中学校を卒業したあと、専門学校・高等学校へ入る時の試験がむつかしくて、時には二十人に一人というほどの競争率を示す学校さえあった。その入学難を緩和するために、時の原敬内閣が高等学校増設案をたて、従来八校に止まっていた高等学校をこの年十二校にふやしたのであった。ところがこの年から中学校四年終了者が高校へ進学できることになり、私らは古豪と新鋭の板ばさみになったわけで、実際はあまりらくな試験ではなかったかも知れない。しかしそれ以後続々と高校、専門学校が増設されたので、一時はこの段階での入学難はよほど緩和されていたと思う。

 ところが今度は次の段階、すなわち高校から大学へ進む際の入学が困難になってきた。私自身は高校から京都大学文学部へ進んだので、入学試験どころか、先輩から久しぶりで大量の新入生があったから豊年踊りをしようか、など冗談をいって大歓迎を受けたものだが、高校の同窓生でも東京大学の法学部へ志願した人たちなどは相当な競争率の入学試験を通過せねばならなかったらしい。しかし当時はまだ大学ともあろうものが、今日のような入学試験を行わねばならぬようになろうとは、何ぴとも夢想だにしなかったことであった。

 戦後になって大学への入学がきびしくなると、大学へ入るために高校、高校へ入るために中学校、中学校に入るために小学校、小学校へ入るために幼稚園まで連続して競争が行われるようになったと聞く。これは中国においてすでに過去の遺物となった科挙制度の再現かと疑わせるに足るものがある。」

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posted by Fukutake at 07:21| 日記