「人生論風に」 田中美知太郎 新調選書
ニヒリズム p228〜
「いわゆる廃家とまで行かないでも、人の住んでいない家、人の来なかった別荘などを見ると、そこにちょうど欠けているものとして、われわれの日常生活というものがあらためて考えさせられることがある。 草が一面に繁茂していて、家そのものに近づくことも容易でない場合がある。 人が住んでいるということは、雑草が刈り取られたり、通路が出来ていたりすることであろう。 荒野をひらいて生活の場をつくって行くということは、大へんな努力だと誰でも考える。 しかしそのような努力がやむとき、荒廃というようなものが支配する。 夏草の旺盛な繁殖の姿を前にして、わたしたちはかえって、失われた寂寥感を深くする。 廃家とか廃園とかの一種の美しさも、ただの自然を見る面白さとはちがって、失われた生活が欠如態のまま、わたしたちの視野を制約しているところに特色があるのだとも考えられる。 しかしいま私たちが考えようとしているのは、この種の感傷事ではない。 われわれの生活のなかに忍びこんでくる一般的な荒廃が問題なのである。 われわれの生活を支えている努力が内部から空しくくずれて行くといったような現象である。
「近ごろの最大の出来事は、神が死んだということである。 キリスト教の神を信ずるということが、信仰の意味を失ったということである。 既にこの出来事はヨーロッパの上に最初の影を落としはじめている」
とニイチェが書いたのは、もう八十年も前のことである。 当時にあっては、
「この奇怪な出来事は未だ人間の耳にはとどいていないで、途中をさまよっているところなのだ。 電光や雷鳴も見え聞えするのには時間がかかる。 星の光も同じだ。 行為はなされてしまった後でも、見られたり聞かれたりするのには時間がかかる。 神の死はかれらにとっては、一番遠いところにある星よりも更にもっと遠いことなのだ」
というようなことが言われたのである。 しかし今日では、「神が死んだ」はもはやめずらしい知らせではない。 キリスト教の神を信じたことのない人たちが、この言葉をごく手軽につかっている。 解釈家によると、「神は死んだ」というのは、ニヒリズムの宣言だということにもなる。 これだとキリスト教とは無関係に使えるかも知れない。 しかしニヒリズムも今日では陳腐な言葉となってしまって、「ニヒルなところがある」などということが、何かのかざりにでもなるかのように言われたりする。
しかし「神が死んだ」ということは、もっと大へんなことなのだと思われる。 この言葉は、もう何度も引用され、いろいろに注釈されてしまったので、今さら誰もめずらしがりはしない。 しかしニヒリズムといい、神の死といっても、そこに失われたのは何なのか。 われわれがさ迷い歩くのは、どういう無のなかをなのか。 それをもう少しはっきりさせなければならない。」
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2023年03月04日
世界唯一絶対不死の神が死んだ?
posted by Fukutake at 07:53| 日記
薩摩武士
「街道をゆく夜話」 司馬遼太郎 朝日文庫 2007年
知覧の武家屋敷 p336〜
「薩摩は、武士の国で、その士風も、日本の他の地域で発達したそれとは、すこし異なっている。
そのことは私ども他府県うまれの者からみれば、ときに爽快な感じがし、ときに陰惨さを感じ、同時に好意的な意味での滑稽味をもち、あるいはときに、薩摩こそもっとも日本的で、私どもが異国人なおではないかという倒錯した思いももつ。
他のどの地域でもそうだが、戦国までは、兵農不分離だったといっていい。 戦国の島津家も、そうであった。 特にこの家は戦国末期に全九州を征服しようとした。 このため領内を大動員し、各地で戦わせ、戦うなかで独特の士風をつくりあげた。 卑怯を最大の悪徳とすること、なによりも死を怖れることをもっとも卑しむこと、無力になった敵に対してはあわれみをもつこと、理屈をいわぬこと、などで、このことは、徳川期にも十分維持された。
秀吉の統一事業の成立によって、九州を席捲中の島津家は、中央に屈服し、もとの薩摩、大隈、日向の一部(今の鹿児島県と宮崎県の一部)に押しこめられた。 征服事業によって膨張した兵員を減らすわけにはゆかず、ほとんどそのまま江戸期一般でいう武士とした。 しかし七十七万石という高では多すぎる士族人口はとても扶持できず、かれらを領内のあちこちに散在させ、「ふもと」称する郷士集落を形成させた。 日常は士風を練る。 経済的実体として自作農とし、山野を耕作させた。 経済の面で農民と異なるのは、租税をとられないということだけにすぎない。
そういう点では農民と差がない。 が、それだけに、強烈に文化性において差を作らせた。 まず、侍として百姓共に威張らせることが、侍の精神の発条(ばね)を形成していたといっていい。 発条がなければ、人は自己の名誉を守るとか、恥をすすぐとか、おおやけのためによろこんで非条理の死を遂げるとか、いわば欲得という具体的世界から昇華した形而上性のために死ぬことができにくい。 とくに江戸期から西南戦争までの薩摩武士をささえた強い発条はここにあるが、これをささえた犠牲的な階級は、江戸期の諸藩の百姓のなかでももっとも卑しくあつかわれた薩摩百姓だった。
ついで、家屋の様式を、農民の家とは別趣のものにしなければならない。
薩摩では、どの郷士屋敷も、家の外郭を、火山岩の切石の整々とした石垣でかこうが、おそらく織豊期までは土塁だったにちがいない。 石垣の技術は織豊期の築城形式の普及で流行し、士族屋敷にまでそれが用いらるようになった。 薩摩では他の地域に多い荒積みではなく、石をヨウカンのように切って隙間なく積む。 これは、中国において圧倒的に多い積み方である。 この土地の火山岩がやわらかくて細工しやすいということも、この様式を盛行させた原因の一つにかぞえられる。
樟(くす)の木に夾竹桃の咲きまじり 石垣あをき鹿児島の街
という与謝野晶子の感動は、知覧においてもそのまま通用する。」
(「産経新聞大阪版」朝刊一九七六年八月二十九日)
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知覧の武家屋敷 p336〜
「薩摩は、武士の国で、その士風も、日本の他の地域で発達したそれとは、すこし異なっている。
そのことは私ども他府県うまれの者からみれば、ときに爽快な感じがし、ときに陰惨さを感じ、同時に好意的な意味での滑稽味をもち、あるいはときに、薩摩こそもっとも日本的で、私どもが異国人なおではないかという倒錯した思いももつ。
他のどの地域でもそうだが、戦国までは、兵農不分離だったといっていい。 戦国の島津家も、そうであった。 特にこの家は戦国末期に全九州を征服しようとした。 このため領内を大動員し、各地で戦わせ、戦うなかで独特の士風をつくりあげた。 卑怯を最大の悪徳とすること、なによりも死を怖れることをもっとも卑しむこと、無力になった敵に対してはあわれみをもつこと、理屈をいわぬこと、などで、このことは、徳川期にも十分維持された。
秀吉の統一事業の成立によって、九州を席捲中の島津家は、中央に屈服し、もとの薩摩、大隈、日向の一部(今の鹿児島県と宮崎県の一部)に押しこめられた。 征服事業によって膨張した兵員を減らすわけにはゆかず、ほとんどそのまま江戸期一般でいう武士とした。 しかし七十七万石という高では多すぎる士族人口はとても扶持できず、かれらを領内のあちこちに散在させ、「ふもと」称する郷士集落を形成させた。 日常は士風を練る。 経済的実体として自作農とし、山野を耕作させた。 経済の面で農民と異なるのは、租税をとられないということだけにすぎない。
そういう点では農民と差がない。 が、それだけに、強烈に文化性において差を作らせた。 まず、侍として百姓共に威張らせることが、侍の精神の発条(ばね)を形成していたといっていい。 発条がなければ、人は自己の名誉を守るとか、恥をすすぐとか、おおやけのためによろこんで非条理の死を遂げるとか、いわば欲得という具体的世界から昇華した形而上性のために死ぬことができにくい。 とくに江戸期から西南戦争までの薩摩武士をささえた強い発条はここにあるが、これをささえた犠牲的な階級は、江戸期の諸藩の百姓のなかでももっとも卑しくあつかわれた薩摩百姓だった。
ついで、家屋の様式を、農民の家とは別趣のものにしなければならない。
薩摩では、どの郷士屋敷も、家の外郭を、火山岩の切石の整々とした石垣でかこうが、おそらく織豊期までは土塁だったにちがいない。 石垣の技術は織豊期の築城形式の普及で流行し、士族屋敷にまでそれが用いらるようになった。 薩摩では他の地域に多い荒積みではなく、石をヨウカンのように切って隙間なく積む。 これは、中国において圧倒的に多い積み方である。 この土地の火山岩がやわらかくて細工しやすいということも、この様式を盛行させた原因の一つにかぞえられる。
樟(くす)の木に夾竹桃の咲きまじり 石垣あをき鹿児島の街
という与謝野晶子の感動は、知覧においてもそのまま通用する。」
(「産経新聞大阪版」朝刊一九七六年八月二十九日)
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posted by Fukutake at 07:47| 日記