「ことわざの知恵・法の知恵」 柴田光蔵 講談社現代新書 1987年
刑事訴訟は民事訴訟の先決とはならない p138〜
「出所不明な格言ですが、それほど古いものではないと思われます。 それで、この格言の趣旨をもう少し拡げて考えることにしますと、刑事訴訟と民事訴訟は別だてで、タテマエとしてはおたがいに干渉しあわないことを意味しています。 世間の常識ではどうなっているのでしょうか?
たとえば、ある人が人を殺したとします。 その者は死刑の判決をうけ処刑されました。 刑事事件としてはそれはケリがつくことになりますが、犯人側は、被害者側に民事的な損害賠償を行わなければなりません。 もっとも、民事裁判については、「訴えがなければ裁判はない」ですから、死刑求刑ぐらいの段階で、遺族が納得して損害賠償をあきらめることもあるのではないでしょうか。 ここでは、民事的なものと刑事的なものが一体として考えられるのです。何しろ、日本では、民事裁判をやるにも、怨みをはらすとか、復讐するとか、苦しめてやるとかの因子が無視できない条件となっているお国柄で、私人の手により相手を裁きの場にひきずりだすことで、被害者側に心の平静がえられることもあるそうですから、民事訴訟といっても、なかなか情緒的なことろがあるわけです。
それから、ぐるりと歴史や各地域を比較の眼でもって見渡して見ますと、古代ローマでは、民事的なものが大きくふくらんで、刑事的なものは片隅にあるだけでしたし、近くは、英米法にいては、一定の条件のもとにおいてだけですが、損害賠償のほかに、懲罰的賠償というかなり重い責任が課せられ、企業などに恐怖の制度となっているようです。 そして、今後の問題としましても、民刑統合の線で考え直してみることも、まったく時代錯誤とはいいきれない面があると私は考えています。 別にレトロブームに乗っかって申しているわけではありません。 ただ、法の進化とか発展とかが、それほどスッキリしていなことをいいたかっただけです。
さて、この格言の本来の意味は、「一見したところ重いものと考えられもしている刑事訴訟の判決が有罪と出ても、同一事件が民事訴訟ルートに乗せられたさい、なんら責任がない結果もありうるし、逆に、無罪でも、民事有責の結末になることもあるということ」あたりにあるのでしょう。 事実、裁判官は民事にも刑事にも別々にタッチしますが、証拠の評価とか心証の形成方法の点で、両分野でかなりちがうことろがありますし、そもそも民法の目的と刑法の目的とは同じではないものですから、独立に扱うのが至当とされているのです。 いわば、法の世界では当然のことをいっていると見るべきかもしれません。 できれば、この機会に、「民事と刑事とはまったく別物である」とご記憶下されば何かのときにお役に立つと思います。」
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2023年03月01日
民事と刑事とは全く別
posted by Fukutake at 07:20| 日記
サンカ
「井伏鱒二全集 第十一巻」(随筆) 筑摩書房 1965年
十一月十二日記 p98〜
「山窩(さんか)の話を書くのは三角寛の専門だが、僕の郷里の古老の書き残した文献が手にはいったので、その一部を書きうつしたい。 中国山脈のなかの山窩の話である。
山窩は流浪するから生活様式が簡略である。風呂桶のような嵩張るものは持運びできないので、夏は川か溜池で行水ですますが、冬はそれではたまらない。 先づ、河原の砂地に窪みを掘って渋紙を敷く。 この渋紙敷きの穴ぼこに水を汲みこんで、そのほとりで焚火をして焼けた小石を幾つも水のなかに入れる。 水は焼石で次第に熱くなる。 これが風呂である。 寒風で湯が冷めて来ると、また焚火をして小石を入れる。
蚊帳も嵩張るので持って歩かない。 だが、山窩にとっては、蚊に喰われることよりも蚊群の唸り声のほうがうるさくて迷惑である。 これの処方には、草の葉を手のひらでよく揉んで、綿のように柔らかくしたのを耳穴に入れて塞ぐ。 これで蚊の泣声がきこえないので安眠できる。
この処方でもまだ間に合わないと、親分に当たる者が大声で「今晩は蚊が多いから、お地蔵様のところの辻堂へ行って寝よう。 者ども、いざ行こう」と喚いて、辻堂出なく反対の方角の荒神様の拝殿へ行く。 蚊の群は山窩どもが辻堂へ逃げて行ったとだまされて、いざ後を追えとばかりに辻堂に行く。 山窩は一人も来ていない。
蚊の群にも親分の蚊がいて、それの判断によって大体において統制ある行動をとっている。 蚊の親分は辻堂に来ても山窩の姿が見えないので、一ぱい喰わされたと気がついて荒神様の拝殿へ一族郎党を引きつれて行く。
そこへ山窩の親分は、またもや大声で「ここは蚊がひどいから、氏神様の拝殿へ行こう。 いざ行け」と喚いて、氏神様ではなくて谷川の下に行く。 蚊は氏神様の拝殿まで飛んで行くが、山窩はいない。 またもや欺されたと知って橋の下まで飛んで行くが、夏の夜は明けやすく。かれこれする間に東天に朝日がのぼる。
山窩は農作には手をつけないので、米は百姓家か米屋で買って来る。 これを炊くには山窩の娘の湯巻を使う。 米を湯巻に包んで川のなかへつけ、暫くひたしておく。 それを乾いた湯巻でもって、その結び目が内と外と反対になるように包んで、砂地を五六寸の深さに掘った穴に入れ、土をかぶせてその上から焚火をする。 うまい工合に炊けて来る。
炊く米の分量は、一度に三升以内に限られている。 それ以上の分量は、湯巻の布幅では十分に包みきれないものである。 したがって女の尻の太さは、米三升、たったそれだけのものだと云われている。
これは大西光治という人の「郷土の昔ばなし(その三)」のうちの一部である。」
昭和二十八年十一月執筆。 新潮社版『ななかまど』に収録。
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十一月十二日記 p98〜
「山窩(さんか)の話を書くのは三角寛の専門だが、僕の郷里の古老の書き残した文献が手にはいったので、その一部を書きうつしたい。 中国山脈のなかの山窩の話である。
山窩は流浪するから生活様式が簡略である。風呂桶のような嵩張るものは持運びできないので、夏は川か溜池で行水ですますが、冬はそれではたまらない。 先づ、河原の砂地に窪みを掘って渋紙を敷く。 この渋紙敷きの穴ぼこに水を汲みこんで、そのほとりで焚火をして焼けた小石を幾つも水のなかに入れる。 水は焼石で次第に熱くなる。 これが風呂である。 寒風で湯が冷めて来ると、また焚火をして小石を入れる。
蚊帳も嵩張るので持って歩かない。 だが、山窩にとっては、蚊に喰われることよりも蚊群の唸り声のほうがうるさくて迷惑である。 これの処方には、草の葉を手のひらでよく揉んで、綿のように柔らかくしたのを耳穴に入れて塞ぐ。 これで蚊の泣声がきこえないので安眠できる。
この処方でもまだ間に合わないと、親分に当たる者が大声で「今晩は蚊が多いから、お地蔵様のところの辻堂へ行って寝よう。 者ども、いざ行こう」と喚いて、辻堂出なく反対の方角の荒神様の拝殿へ行く。 蚊の群は山窩どもが辻堂へ逃げて行ったとだまされて、いざ後を追えとばかりに辻堂に行く。 山窩は一人も来ていない。
蚊の群にも親分の蚊がいて、それの判断によって大体において統制ある行動をとっている。 蚊の親分は辻堂に来ても山窩の姿が見えないので、一ぱい喰わされたと気がついて荒神様の拝殿へ一族郎党を引きつれて行く。
そこへ山窩の親分は、またもや大声で「ここは蚊がひどいから、氏神様の拝殿へ行こう。 いざ行け」と喚いて、氏神様ではなくて谷川の下に行く。 蚊は氏神様の拝殿まで飛んで行くが、山窩はいない。 またもや欺されたと知って橋の下まで飛んで行くが、夏の夜は明けやすく。かれこれする間に東天に朝日がのぼる。
山窩は農作には手をつけないので、米は百姓家か米屋で買って来る。 これを炊くには山窩の娘の湯巻を使う。 米を湯巻に包んで川のなかへつけ、暫くひたしておく。 それを乾いた湯巻でもって、その結び目が内と外と反対になるように包んで、砂地を五六寸の深さに掘った穴に入れ、土をかぶせてその上から焚火をする。 うまい工合に炊けて来る。
炊く米の分量は、一度に三升以内に限られている。 それ以上の分量は、湯巻の布幅では十分に包みきれないものである。 したがって女の尻の太さは、米三升、たったそれだけのものだと云われている。
これは大西光治という人の「郷土の昔ばなし(その三)」のうちの一部である。」
昭和二十八年十一月執筆。 新潮社版『ななかまど』に収録。
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posted by Fukutake at 07:14| 日記