「聞かせてよ、ファインマンさん」 R.P.ファインマン 大貫昌子・江沢洋(訳) 岩波現代文庫 2009年
科学の特質 p226〜
「科学のひとつの特質は、合理的な考えの価値を教えると同時に、思想の自由の大事さを教えてくれることでしょう。これこそ懐疑のたまもの、教訓のすべてが真実であるという考え方にたいする懐疑が生んだ、非常に有益な結果です。ただしここでみなさん、ことに教える者は心して、ときに科学を育てるのに使われている形式や手続きを踏襲するだけの科学と、本来の科学とのちがいを嗅ぎわける必要があります。「われわれはノートをとり、実験を行い、観察し、かくかくしかじかをやる」と言うのはたやすく、その形式をそっくり真似ることもできるでしょう。しかし偉大な先達たちの教えの内容を忘れて、ただ形を踏襲しただけでは、どんな偉大な宗教だってじきに意味を失ってしまうはずです。これと同様に形だけを真似て、それを科学と呼ぶ人もいるでしょうが、そんなものはエセ科学にすぎません。ところが今日多くの学校や団体が、エセ科学者的アドバイザーの影響による「圧政」の下で苦しんでいるのです。
たとえば教育法についても、観察し、リストを作り統計をとるなどしてさまざまな研究がなされていますが、いくらそうしたからといって、そんなものがいきなりれっきとした科学や知識になるわけではなく、それはあくまで単なる科学の真似にすぎません。ちょうど南洋の島の住人が、木で飛行場やラジオタワーを作り、ひたすら飛行機がやってくるのを待つようなものです。彼らはおまけに近くの外国人の飛行場に止まっている飛行機と同じような格好の木製の「飛行機」まで作っているのですが、これが何としたことかいっこうに飛んでくれません。こうした科学の猿真似の結果といえば、いわゆる「専門家」つまりエキスパートを作り出すことぐらいのものです。みなさんのなかにも専門家は、きっと大勢おられることでしょう。しかし、現場で実際に子どもたちを教えている教師であるみなさんだって、たまには専門家の言っていることを疑うこともできるはずです。僕はみなさんが専門家を、たまにどころか、必ず疑ってかかるべきだということを、科学から学んでいただきたいと思います。事実、僕は科学のもっと別な言いかたでも定義できます。
科学とは専門家の無知を信じることです。
科学がこれこれこういうことを教えると言った場合、こう聞き返すにかぎります。「科学はどうやってそれを示したのかい? 科学者はどのようにしてそれを発見したのかね? どのようにして、何を、どこで?」と。」
(「The Physics Teacher」American Association of Physics Teachers, 1969 vol.9 より)
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当代娘
「六つのひきだし」ー「森繁の重役読本」より 向田邦子 1993年
話半分腹八分 p31〜
「重役 いやいや、みンごと、いっぱい食わされましたわ。
ー くちびるを噛んでの重役さんですが、さては手形のパクリ屋にでも…。
重役 いやいや、そんなことはやりませんがね、女の子というのは、こわいねえ、本当こわいよ。
ー 「世の中に酒と女は仇なり、どうぞ仇にめぐり逢いたい」
とも言いますからねえ、重役さんの本当にこわいのかめぐり逢いたいのか…。
重役 いや、めぐり逢ったから、おっかない、と言っとるんじゃないの!
ー 去年、重役付きの受付として入社した女子社員は、十八、九の愛くるしい女の子だったそうでございます。
重役 よく気がきくし、かわいいしね、目をかけてやっとったんだが、ついこないだ、「結婚します」と言うんだな…。
ー結婚とあればしかたがない。「おめでとう」と祝福して。ないがしかのお祝いを贈って、彼女は辞めたんだそうですが…。
重役 その子に逢ったんだよ、ばったりと! しかもきみ、銀座のクラブなんだからもう…。いや、それがうち辞めて、一週間とたっとらんのだから、もう、何ともはや…。
ー重役さんもおどろいたでしょうが、その女性もさすがにピクンとしたそうです。でもたじろいだのはほんの一瞬のことで、
女 フフ、バチ当たっちゃったわ、常務がいらっしゃるなんて…。
重役 ウーン、結婚したんじゃなかったのかい。
女 ごめんなさい、お祝いいただいたりして…。
重役 ウーン、まあ、そりゃ、いいけどね。
女 あの時の、いただいた商品券で、これつくったんですよ。フフ、扇風機がドレスに化けちゃった!
ー たった五日の間に、見ちがえるように、大人になっていたそうでございます。
重役 「またいらしてねえ」としなだれかかられたとき、わたしは、反射的にピクンとしたねえ。何というか、アホらしいというか、腹立たしいというか。あんまり人の話を鵜呑みにしちゃいかんねえ。
ー 彼女の結婚祝いの奉加帳の第一ページに登場して、音頭取りの役を買って出た重役さんは、苦笑いをしておいでですが、そうそう、こんな言葉がありましたっけ。
「話半分腹八分」
人のはなしは、話半分と思え、そして腹八分に食べていれば決してバカを見ることはないぞよ、ということでしょうかねえ。」
(「森繁の重役読本」は、昭和三十七年三月から昭和四十四年十二月まで、日曜を除く毎朝五分間放送された森繁久彌朗読にによる連続ラジオエッセイ。)
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昭和の雰囲気充溢
話半分腹八分 p31〜
「重役 いやいや、みンごと、いっぱい食わされましたわ。
ー くちびるを噛んでの重役さんですが、さては手形のパクリ屋にでも…。
重役 いやいや、そんなことはやりませんがね、女の子というのは、こわいねえ、本当こわいよ。
ー 「世の中に酒と女は仇なり、どうぞ仇にめぐり逢いたい」
とも言いますからねえ、重役さんの本当にこわいのかめぐり逢いたいのか…。
重役 いや、めぐり逢ったから、おっかない、と言っとるんじゃないの!
ー 去年、重役付きの受付として入社した女子社員は、十八、九の愛くるしい女の子だったそうでございます。
重役 よく気がきくし、かわいいしね、目をかけてやっとったんだが、ついこないだ、「結婚します」と言うんだな…。
ー結婚とあればしかたがない。「おめでとう」と祝福して。ないがしかのお祝いを贈って、彼女は辞めたんだそうですが…。
重役 その子に逢ったんだよ、ばったりと! しかもきみ、銀座のクラブなんだからもう…。いや、それがうち辞めて、一週間とたっとらんのだから、もう、何ともはや…。
ー重役さんもおどろいたでしょうが、その女性もさすがにピクンとしたそうです。でもたじろいだのはほんの一瞬のことで、
女 フフ、バチ当たっちゃったわ、常務がいらっしゃるなんて…。
重役 ウーン、結婚したんじゃなかったのかい。
女 ごめんなさい、お祝いいただいたりして…。
重役 ウーン、まあ、そりゃ、いいけどね。
女 あの時の、いただいた商品券で、これつくったんですよ。フフ、扇風機がドレスに化けちゃった!
ー たった五日の間に、見ちがえるように、大人になっていたそうでございます。
重役 「またいらしてねえ」としなだれかかられたとき、わたしは、反射的にピクンとしたねえ。何というか、アホらしいというか、腹立たしいというか。あんまり人の話を鵜呑みにしちゃいかんねえ。
ー 彼女の結婚祝いの奉加帳の第一ページに登場して、音頭取りの役を買って出た重役さんは、苦笑いをしておいでですが、そうそう、こんな言葉がありましたっけ。
「話半分腹八分」
人のはなしは、話半分と思え、そして腹八分に食べていれば決してバカを見ることはないぞよ、ということでしょうかねえ。」
(「森繁の重役読本」は、昭和三十七年三月から昭和四十四年十二月まで、日曜を除く毎朝五分間放送された森繁久彌朗読にによる連続ラジオエッセイ。)
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昭和の雰囲気充溢
posted by Fukutake at 10:00| 日記
2023年02月27日
強い、は正か
「哲学からの考察」 田中美知太郎 著 岩波書店 1987年
正と善 p179〜
「プラトンの『国家』のはじめのところで、対話人物の一人が「正とは他人の善、自己の悪」という説をなしている。つまり「正」は「悪」であると言われているのである。もっとも右の言い方では意味がはっきりしない。もっとわかりやすく言えば、「正」は「他のためになっても、自分のためにはならぬ」とか、「他人にとっては利益であるが、自分には損なものである」というようなことになるだろう。これだと当然だということにもなるだろう。正義は主として他のために行うものであり、時には自分の利益、或いは自分自身を犠牲にして行うものだとも考えられるからである。しかしプラトンの対話篇で考えられているのは、そういうりっぱな意味ではない。そこでは「正」は、自分で住んでいる国家社会の法律習慣(ノモス)に従うことだとされている。適法、遵法、合法などが正と解されているわけである。ところが、この法律その他はいずれもその国家社会において優位にある者、強者或いは支配者が、自己の利益のために定めているものであるから、これに従うことは、そういう支配者或いは優者、強者の利益に奉仕することにほかならない。それは弱者、被治者のためではなく、むしろ損になる。だから、それは「他人の善、自己の悪」ということになるというのである。そしてこのことは、支配者、強者が少数者であろうと、また多数者であろうと同じであり、民主制の下においても寡頭制や独裁制の下においても、みな同じだというのである。
しかし、「正」を「悪」に結びつけるのは、やはり背理のように感じられる。これは「善」を「利」とし、「悪」を「不利」と同じことにするためである。「善」の意味は大へんつかまえにくいところがある。そして「ためになる」とか「利益」とか言われるものとも、たしかに重なり合うところがあるのである。しかし他方では、すべての価値あるもの、すぐれたもの、最高至上のものを指向する。だから、ギリシャでは「徳」と一致する意味をもっている。「よき人」の「よさ」は「徳」(virtus)にほかならないからである。このラテン語、或いはギリシャ語の意味は、もとにさかのぼって考えれば、「男らしさ」あるいは「強さ」の意味なのである。男の場合、「男らしさ」「強さ」ー それが「勇」ということであるがー が第一の徳、男としてのすぐれていることの第一のものなのである。
しかし人の徳は、ただ強いこと勇気があることだけでは足りない。「知力のすぐれていること」とか、「思慮分別のあること」とか、またいろいろのことが要求される。それらのすべてが徳のうちに統括され、「よき人」の「よさ」となる。「正しい人」もまたそういう「よき人」になるのかどうか。「正」が徳目の一つであるとすれば、当然そうでなければならない。しかし「正」は他の徳、知仁勇などとどこがちがうようにも感じられる。そこに問題の一点があるのである。むろん「利」だけで考えても、「他人の善」として、他の人の立場から見れば、正しい人自分たちの利益になる人なのだから、当然「善人」と考えねばならなくなる。少しパラドクス的になるが、正義の人は自分に不利益をあたえるから、自分にとっては「悪人」だけれども、自分以外の人たちにとっては、これほど「善い人」はいないということになる。正しくあることは、自分の損になるかも知れないが、たしかに「りっぱ」な(美しい)。ことなのだということになる。
つまりわれわれの問題はこのような入りくんだ関係についてなのである。」
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自分の損を省みない。
正と善 p179〜
「プラトンの『国家』のはじめのところで、対話人物の一人が「正とは他人の善、自己の悪」という説をなしている。つまり「正」は「悪」であると言われているのである。もっとも右の言い方では意味がはっきりしない。もっとわかりやすく言えば、「正」は「他のためになっても、自分のためにはならぬ」とか、「他人にとっては利益であるが、自分には損なものである」というようなことになるだろう。これだと当然だということにもなるだろう。正義は主として他のために行うものであり、時には自分の利益、或いは自分自身を犠牲にして行うものだとも考えられるからである。しかしプラトンの対話篇で考えられているのは、そういうりっぱな意味ではない。そこでは「正」は、自分で住んでいる国家社会の法律習慣(ノモス)に従うことだとされている。適法、遵法、合法などが正と解されているわけである。ところが、この法律その他はいずれもその国家社会において優位にある者、強者或いは支配者が、自己の利益のために定めているものであるから、これに従うことは、そういう支配者或いは優者、強者の利益に奉仕することにほかならない。それは弱者、被治者のためではなく、むしろ損になる。だから、それは「他人の善、自己の悪」ということになるというのである。そしてこのことは、支配者、強者が少数者であろうと、また多数者であろうと同じであり、民主制の下においても寡頭制や独裁制の下においても、みな同じだというのである。
しかし、「正」を「悪」に結びつけるのは、やはり背理のように感じられる。これは「善」を「利」とし、「悪」を「不利」と同じことにするためである。「善」の意味は大へんつかまえにくいところがある。そして「ためになる」とか「利益」とか言われるものとも、たしかに重なり合うところがあるのである。しかし他方では、すべての価値あるもの、すぐれたもの、最高至上のものを指向する。だから、ギリシャでは「徳」と一致する意味をもっている。「よき人」の「よさ」は「徳」(virtus)にほかならないからである。このラテン語、或いはギリシャ語の意味は、もとにさかのぼって考えれば、「男らしさ」あるいは「強さ」の意味なのである。男の場合、「男らしさ」「強さ」ー それが「勇」ということであるがー が第一の徳、男としてのすぐれていることの第一のものなのである。
しかし人の徳は、ただ強いこと勇気があることだけでは足りない。「知力のすぐれていること」とか、「思慮分別のあること」とか、またいろいろのことが要求される。それらのすべてが徳のうちに統括され、「よき人」の「よさ」となる。「正しい人」もまたそういう「よき人」になるのかどうか。「正」が徳目の一つであるとすれば、当然そうでなければならない。しかし「正」は他の徳、知仁勇などとどこがちがうようにも感じられる。そこに問題の一点があるのである。むろん「利」だけで考えても、「他人の善」として、他の人の立場から見れば、正しい人自分たちの利益になる人なのだから、当然「善人」と考えねばならなくなる。少しパラドクス的になるが、正義の人は自分に不利益をあたえるから、自分にとっては「悪人」だけれども、自分以外の人たちにとっては、これほど「善い人」はいないということになる。正しくあることは、自分の損になるかも知れないが、たしかに「りっぱ」な(美しい)。ことなのだということになる。
つまりわれわれの問題はこのような入りくんだ関係についてなのである。」
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自分の損を省みない。
posted by Fukutake at 07:30| 日記