2023年01月31日

俳諧の中の李白

「唐詩」 村上哲見 講談社学術文庫 1998年

盛唐の詩 李白 p148〜

 「李太白 一合ずつに詩を作り
  四日めに あき樽を売る李太白

 「李太白」はもとより李白のこと、あざなで呼べば李太白である。上の二首はどちらも杜甫の「飲中八仙歌」にみえる李白をタネにした川柳、「飲中八仙歌」は当時の長安における有名な酒飲み八人を杜甫が七言古詩に詠じたもの、李白を詠じた一節はつぎのごとくである。

  李白 一斗 詩百篇        李白一斗詩百篇
  長安の市上の酒家に眠る      長安市上酒家眠
  天子 呼び来たれども船に上らず  天子呼来不上船
  自ら称す 臣は是れ酒中の仙なりと 自称臣是酒中仙

 この詩は『唐詩選』にみえていて広く知られているが、とくに「李白一斗詩百篇」は江戸時代の人々に強烈な印象を与えたらしく、当時の文芸の処々に顔を出す。一斗は十升=百合であるから、一斗百篇なら一合ごとに一首というわけ、第二首は四斗樽を四日でからにするの意。四斗樽は日本独特のものであろうけれども、川柳となればそんなことはおかまいなしである。

 ヨーロッパでも十九世紀になると中国趣味(シノワズリイ)の流行にともなって中国の詩がしきりに出版されるようになるが、ここでも広く人気をあつめたのは李白であった。ことに二十世紀初頭、一九〇一年に刊行されたハンス・ベトゲの『中国の笛』と題する翻訳詩集は注目すべきで、音楽家のグスタフ・マーラーが偶然これを読んで感動し、名曲「大地の歌」が生まれることになったという。「大地の歌」は歌曲つき交響曲という特異な形式だが、その歌曲の歌詞はすべて唐詩にもとづいており、とくに李白の詩がきわだっている。もともとベトゲの『中国の笛』が採り上げた古代(『詩経』)から清朝にいたる間の詩六十九首のうち、李白が十五首という多数を占めていた。(ちなみに杜甫の九首がこれに次ぐ)。『大地の歌』では全六楽章のそれぞれに『中国の歌』から採った歌詞がついているが、そのうちの四つの楽章の歌詞は「李太白による」となっている。
 たとえば「春のよっぱらい」と題されている第五楽章の歌詞は李白のつぎの詩にもとづいているに違いない。

    春日 酔より起ちて志を言う 李白
世に処(お)るは大いに夢の若(ごと)し  処世若大夢
胡為(なんす)れぞ 其の生を労するや   胡為労其生
所以(ゆえ)に終日酔い          所以終日酔
頽然として前楹(入口の柱)に臥す     頽然臥前楹
覚め来たって庭前を眄見れば        覚来眄庭前
一鳥 花間に鳴く             一鳥花間鳴
借問す 此れ何の時ぞと          借問此何時
春風は流鶯と語る             春風語流鶯
之に感じて嘆息せんと欲し         感之欲嘆息
酒に対して還(ま)た自ら傾く       対酒還自傾
浩歌して明月を待てば           浩歌待明月
曲尽きて已に情を忘る  曲尽已忘情

このように偉大な作曲家を感動させ、名曲が生まれることになったということは、李白の詩が時と所を超えた普遍性を内包していることを如実に物語っていると思う。」

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posted by Fukutake at 08:40| 日記

よけいな者

「宮本常一著作集 21」 庶民の発見  未来社

貧しき人びと p51〜

 「家のよけい者たち                          
 もう一五、六年もまえのことであるが、高知県の山中で一人の老婆から、その人の若い時の話をきいたことがある。イロリの火のもえるそばで、老婆のはなしをきいていて、しばしばノートの手がとまって、胸のつまる思いをしたのである。その老婆は子をまびいた話をしてくれた。長男はあるのにつぎつぎと子供が生れる。今日のように避妊の方法もないから、つい妊娠してしまう。なけなしの財産の中で多くの子供をかかえてはやって行けないし、子供たちが苦労するので、やむなく生まれ出る子を処分したのであr。「子供たちはみんなこの床の下にうずめてあります。私はその上に毎晩ねています。私は極楽へいこうとは思いません、地獄でたくさんです。あの世でどんな苦労してもいい。はやく死んだ子供たちと一緒に賽の河原で石をつもうと思います。」としみじみとはなしてくれた。

 過去の日本の女の中にはこうした痛苦を背負って生涯をあるいた人がどんなに多いことだっただろう。こういう過去の生活はいろいろ批判され、あらためられなければならなかったが、女たちはそうした世界の中で、それなりの善意と誠実の中に生きていたのえあり、彼女たちにとってはその当時、それが最善の方法だったのである。が、そういう生き方の中にあるあやまりのわかったとき、われわれはまたそこからのがれ出るために正しい方法をとることに勇敢であり、聰明さを持たねばならぬと思う。世の親たちはまたもっと真剣に子供たちのことを考えているのであるが、ただ自分たちで気のつかないほど、自分たちの背負って来ている古い殻に支配されがちのものである。それがよいとかわるいとかというまえに、どうしてそういう殻ができあがって来たかを考えて見るべきではないかと思う。…

 貧しさとたたかう                           
 それにしても農民はまずしかった。戦前、大きな地主がいてその勢力のつよかったころ、小作百姓は重い小作料にあえいだのであるが、それすら中小地主を必ずしも大きくしはしなかったようである。そういう家ではたいてい子供を上級の学校へやるために小作米を金にしてつかい、さてその子たちは学校をおえても村にかえって来て仕事をすることはほとんどなく、つかった金が直接村の役にはたたなかったのである。それほどまた村は貧乏しなければならなくなったわけで、それが明治・大正・昭和と九〇年近くもつづいて来たのであるから村のまずしさ、農業の進歩しないことも当然だといっていいのである。むろん村人が貧乏したのについてはもっといろいろの原因があるが、そうした村の貧乏をすくおうとしたのが、まずしい農民の出稼ぎであったともいえよう。

(放送原稿、昭和58年6月20日)
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とにかく貧しかった。

posted by Fukutake at 08:32| 日記