2023年01月30日

方丈記という哲学

「虫目とアニ目」 養老孟司 x 宮崎駿 新潮文庫 平成二十二年

日本という文化 p180〜

 「宮崎作品は、宮崎駿という人柄の表現でもあるが、それはアニメという方法を通して、結局は日本の伝統を語ることになる。方法自体が日本的であり、語られる内容が日本的であるからである。『千と千尋』の魔女は、姿かたちが西洋の魔女だが、そういうものを取り込んでしまうのも日本文化だと、だれでも知っている。しかもあの婆さんの部屋に行くまでの廊下の調度品といえば、どう見ても中国の花瓶なのである。このゴタ混ぜが日本文化でなくて、何が日本文化か。

 伝統文化といえば、能だ歌舞伎だ茶の湯だという。それはそれでいい。しかしゴタ混ぜもまた、日本文化そのものである。能衣装を子細に見れば、どう見ても中近東由来じゃないかという、派手な唐草模様のパッチだったりする。茶の湯の袱紗のさばきは、カトリックの聖体拝受と同じだという説が以前からある。知的所有権などというものは、特殊な時代の、特殊な世界の産物である。独創性とか、個性とかいうが、真の独創なら、他人はそれを理解できない。他人に理解できるなら、それはべつに独創ではない。いずれだれかが考えるはずのこと、それをたかだか最初に思いついたというだけのことだからである。個性もまた同じ。まったく個性的ということは、他人の理解を超越することである。その意味で「個性的」な人に出会いたいなら、精神病院に行った方が早い。

 普遍性というのは、深さを備えた共通性である。アニメがそういう普遍性を帯びていることを、そろそろわれわれは自信を持って認めるべきであろう。「あんなものは」「所詮マンガ」。その種の感覚は根強く残っている。西欧文明にはとくにその傾向が強い。イスラムもそうかもしれない。なぜならかれらは、聖書やコーランを持っている。それはまさしく言葉で書かれているのである。

 『方丈記』は日本風の哲学書である。しかしたいていの人はあれを哲学とはいわない。情感に満ちているからであろう。哲学は理屈だから、情緒が欠けているし、欠けて当然だと思っているらしい。それなら宮崎作品を思想だと思わないのも当然であろう。マルクス・エンゲルス全集のように、文字がいっぱい詰まって退屈でなければ、思想ではないと思っている。それならデカルトに情感はないか。逆であろう。たとえば『方法序説』は情感に満ちてる。さすがに哲学者はそれがわかっているから、人によってはあれを浪花節と評するのである。」

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posted by Fukutake at 11:53| 日記

ソフィスト

「田中美知太郎全集 26」 筑摩書房 平成二年 

政治とソフィスト p109〜

 「…プラトンはソフィストの実用的な政治技術について、この智慧の教師をもって任じている者(ソフィスト)は、

 「この巨大な動物(国民大衆)が思いこんでいることや欲求しているものうち、そもそも何が美であり醜であるのか、何が善であり悪であるのか、何が正であり邪であるのかについては、本当は何も知らない者なのだ。そしてただこれらすべての名前をかれら国民大衆の思いなすところに依拠して使用しているだけなのである。すなわち、この動物の悦ぶところのものを善と呼び、それの反発を買うようなものを悪と呼び、ほかにはそれらについて根拠となる理由をあげることはできないのである。」

 と批評しているのである。ここで「本当は何も知らない」と言われている「無智」こそは、かの『ソクラテスの弁明』において、「善美のことは何ひとつ知らないのに」それを知っているかのように思っているとされた「無智」にほかならないのである。そこに欠けているとされるのは専門技術の知識のことではないのである。ソクラテスはそういう知識が専門家たる職人にあることを認めなければならなかった。しかしそういう人たちは、専門外のことについても専門のことと同じように知っていると思いこんで勝手な発言をしているのを発見したのである。そして当然知っているに違いないと思った政治指導者のうちにこの無智を発見して驚き、更に他の作家たちのうちにもそれを発見しなければならなかったのである。そしてその無智に気づかせることを神命による自分の務めと信じて、その仕事に一身を捧げて死なねばならなかったのである。

 つまり実用政治学とでも呼ぶべきものについては、まさにその実用性がそれの使用され利用されるという手段的召使的な位置を示しているから、むしろすべてを利用し使用する立場にあると考えられる政治の究極性に対応すべき真の政治学ではないことが知られるのであり、また美醜善悪正邪の判断においては、ただ世人の感情や欲望に合わせてそれらを美名として利用するだけで、それらについて何も考えることをせず、その無智と無関心に気づき自覚するところもないから、政治に求められている指導性をもつことができないと見なければならないのである。そこに求められている指導性こそ、政治の智慧に期待されるものであり、またこれこそ求智としての哲学によって探求されているものとも見られるのである。」

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果たして、真の哲学は思惟の中にだけあるものか。

posted by Fukutake at 11:47| 日記