2023年01月18日

京都の漱石

「漱石覚え書」 柴田宵曲 小出昌洋編 中央文庫

 p44〜

 「京に著ける夕
 漱石の入社の辞が「大阪朝日」に掲載されたのは、明治四十五年五月五、六両日で。「嬉しき義務」という標題になって居った。併し漱石の原稿が「大阪朝日」に出たのは、入社の辞が最初ではない。それよりも約一箇月早く「京に著ける夕」が四月九日の紙上に出て居る。この日の新聞が恰も九千号であった。漱石が大学の職を一蹴し、「朝日」に入る前提として西下したのは三月二十八日、四月四日大阪朝日新聞社へ往って村山龍平に逢い、ホテルの晩餐会にも臨んで居る。この結果として先ず九千号の為に「京に著ける夕」を草することになったのかも知れぬ。」

 「京都の漱石
 漱石が「虞美人草」を書くに先立って、京都に遊んだ時、虚子も亦京都に赴いた。使いを出して在否をたずねたところ、漱石の返事に曰く「まだ居ります。すぐにいらっしゃい、但し男所帯だから御馳走は出来ませぬ、御馳走御持参御随意」と。この手紙は「漱石全集」の戦後版には載って居るが、早く虚子が「国民」に連載した「塔」という文章の中に出て来る・漱石の明治四十年の日記を見ると、四月十日の条に「平八茶屋(雨を衝いて虚子と車をかる。渓流、山、鯉の羹、鰻)」とあり、その前日は叡山に登って居るから、前記の手紙は十日のものらしい。虚子はまだ居るという返事を得て、車で上賀茂の狩野亨吉博士の許に漱石を訪ね、それから平八茶屋へ車を駆ったのであろうが、「塔」にはその事は記されて居らぬ。「漱石と私」(虚子)の中に収められた「京都で逢つた漱石氏」という一文はこの時の事を書いたものである。」

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posted by Fukutake at 08:17| 日記

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「孫子」 天野鎮雄(訳・注) 講談社文庫

用間編 一 p240〜
 「孫子は次のように言う。
 およそ、十万という大軍を動員し、自国を出て敵国に進攻すること、千里の遠方に及ぶ時は、国民の供する軍事費と朝廷の負担する軍事費とで、一日千金を費やす。従って、国の内外は騒然となり、民は東奔西走して、はては疲れて道路に怠り、その農業に手のまわらなくなるのが、七十万家に達する。こうして、数年も国を守りながら、僅か一日で国の勝敗がきまる。それにも拘らず、官位・俸給・百金という微々たるものを出しおしんで、間者を用いて敵国の実情を知ろうとしないのは、民に対してまことに思いやりのないことである。そのような者は人々をひきいる将軍でもなければ、また君主を補佐する人でもなく、また勝敗を自由にする人物でもない。

 それ故、聡明な君主と賢良な将軍が、軍を動かせば敵軍に勝ち、その成功が天下のだれよりも抜きんでている、その原因は、敵の実情をあらかじめ知ることにある。敵の実情をあらかじめ知ることは、鬼神に祈って得られるものでもなければ、また亀卜や筮竹の判断によって得られるものでもなく、また日月星辰の運行をためしはかって、それから得られるものでもない。必ず人の報告によって、敵の実情を知ることである。そこで、間者を用いる。」

用間編 三 p246〜
 「それ故、一国の軍事上、間者ほど君主・将軍と親密な者はなく、賞を与えるのに、間者より厚く与えられる者はなく、敵の軍事について、間者よりつまびらかに知っている者はない。

 君主・将軍が、非常にすぐれた智恵を持っていなければ、間者を用いることができない。人をいつくしみ事をよく処理することがないならば、間者を使うことができない。その心の働きが微妙で、人の胸中を見通すのでなければ、間者の報告から真実を見いだすことができない。
 まことにまことに、微細な事にまで、わたっている。間者を用いることは。
 もし、間者の報告に基づくある企画が、まだ実施されない前に、その事が洩れては外部に聞こえたら、それに関係する間者とそれを洩らした者とは、殺される。」

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「間より三軍の事、審(つまびら)かなるは莫し」
posted by Fukutake at 08:14| 日記