2023年01月17日

日本人の信仰

「日本の心」 小泉八雲 平川祐弘編 講談社学術文庫

京都にて p111〜 一八九五(明治二十八)年四月二十一日

 「日本全国の宗教的建築の中でも最も壮大な例と言える二つの建物が最近完成した。 その一つは政府が贈ったもので、造営したのは大極殿と言い、京都を都に定めた第五十一代桓武天皇の大祭を記念して建てられた。 建物は神道建築ではない。 桓武天皇の御所を元の規模で模したのである。 それを計画した敬虔な気持ちの中にある深い詩情など十分に理解するためには、日本が実際にはいまだに死者の支配する国だと知っていなくてはならない。

 一方、庶民が京都の都に贈ったのは、さらに壮大な建物、すなわち真宗の荘厳な寺である東本願寺である。 完成までに十七年の歳月と八百万ドルの費用を費やしたと述べれば、西洋の読者にもその威容がいくらか想像できるのではなかろうか。 単に面積のみを比較するなら、これほどの費用のかからない日本の建物にももっと広いものがある。 だが、日本の寺院建築に通じた人であれば、高さ百二十七フィート、奥行き百九十二フィート、間口二百フィート以上もある寺を建てるのがいかに難しいか、容易に理解できる。 その独特な様式、特に緩やかなカーヴを描く巨大な屋根のために、本願寺は実際よりずっと大きく、山のように見える。 日本ではなく他の国にあったとしても驚嘆すべき建造物であることは間違いない。 長さ四十二フィート、厚さ四フィートもある梁、周囲が九フィートにもなる丸い柱などが使われている。 正面にある須弥壇の後ろの仕切りに描く蓮の花だけで一万ドルかかったという事実一つをとってみても、内部装飾がいかなるものか推測できよう。 この素晴らしい寺院の造営にあたっては、農民達が勤勉に働いて寄進した小銭で費用のほとんどが賄われた。 それなのに何と、仏教はいまや仏教は衰退しつつあると考える人もあるのである。

 落慶式を見るために十万人を越す農民が集まった。 彼らが大勢で広大な中庭に敷きつめられた莚に座って待っているのを私は午後三時頃に見たが、そこはまるで人の海であった。 しかも、式の始まる午後七時まで、この大群衆は影一つない日なたで飲食物も口にせずにひたすら待つのである。 庭の一角に見慣れぬ白い帽子と白い服をつけた二十人ほどの若い女性の一団が見えたので、あの人達は、と私は訊ねてみた。 するとそばにいた人が教えてくれた。
「これだけ沢山の人々が何時間もここで待つわけですから、中には病人も出るでしょう。 それで、具合の悪くなった人を介抱するために看護婦がああして待機しているのです。 担架もそれを運ぶ人手の用意もありますし。お医者さんも大勢控えておられますよ」

 人々の信仰心と忍耐力は大したものだと私は感服した。 もっとも、農民達がこの立派な寺に愛着を感じるのも当然で、これは直接的にも間接的にも彼らの力で建てられた建物なのである。 建設のための実際の労働の少なからぬ部分が無償の奉仕によって行われたし、屋根に使う巨大な梁を遠い山の斜面から京都まで引いて来るのには、信徒の女性達の髪をより合わせた太い綱が用いられた。 今も寺に保存されているその綱の一本を見ると、長さが三百六十フィート以上、直径がほぼ三インチもある。」

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「宗教を信ずる農民の、日本人の核心にある真理と認識の数々はいよいよ強くなり、伸び広がって、日本民族の心の中により深く根を張るであろう」

posted by Fukutake at 09:33| 日記

現憲法=武力不行使

「戦争論ー暴力と道徳のあいだー」 西部邁 ハルキ文庫 2002年

テロルの世紀 p43〜

 「「平成十三年九月十一日の米国において発生したテロリストによる攻撃等に対応して行われる国連憲章の目的達成のための諸外国の活動に対して…」という文句ではじまる百十三文字に及ぶ長文の「テロ対策特別措置法」が、子どもじみて拙(つたな)い国会議論の果てに可決された。

 この拙劣さの淵源は、日本国憲法第九条二項の「非武装・非交戦」はすでに死文である、それゆえそれについての憲法解釈もすべて反故とみなす、と宣言する気力と能力を持った為政者がいないことにある。 「憲法」は、これまで、ギリシャ演劇におけるデウス・エクス・マキーナ(機械仕掛けの神)であった。 つまり、人間たちの心理的・社会的な葛藤が頂点に達すると舞台の奥からカタカタと機械音を上げながらのぼってきて「神託」を示し、それによって場面の進行を促す、それがデウス・エクス・マキーナである。 「憲法」は戦後日本人の葛藤を救済してくれる神、ただしアメリカ製の機械、なのであった。

 小泉首相の「憲法に従って武力行使はしない、したがって武器弾薬の海上輸送は武力行使には当たらない」という手前勝手な論法は、実は、現憲法の精神つまり国民主権の思想に則(のっと)っているのである。 つまり、「憲法にしたがって国民を主権者とする、したがってたとえ国家を解体に導くものであっても国民の世論に従わねばならない」とみなされる、それが戦後という時代の、とりわけ「改革」という名の「失われた十年」の進められ方なのであった。 国民とは、「歴史の良識」は何であるかを探り、それが多少とも確認できたらそれをみずからの拠って立つ精神の地盤とする人々のことである、とはみなされていないのだ。

 今の日本では、アメリカのやり方に似て、ポリティカル・コレクトネス(PC つまり政治的正しさ)が社会正義の最後の拠り所とされている。 そしてPCとは何かといえば、結局のところ「多数派の意見」のことなのである。 そうあるべきだと「憲法」が規定してもいる。 これは(トックヴィルがいうところの)「知性に適用された平等主義」にほかならない。

 知性の多寡はそれに賛同する人間の頭数による、という野蛮な思想が環太平洋に広がっている。 このウルトラモダンな野蛮さは、PCによって排除される少数派のアンチモダンな野蛮を、つまり「自爆」によるテロルを繰り返し呼び込むことになるのであろう。

 活力・公正・節度を大事とするものが暴力という選択肢のことも配慮しなければならないというのは、いうまでもなく、矛盾である。 しかし活力・公正・節度という「平衡」の感覚は、軽はずみな「熱狂」を避けるためのものであるが、同時に熱狂がなければ保つことのできないものでもある。 私のような老境にさしかかったものには加わるのが難しいのだが、平衡維持のためのいわば「静かな熱狂」にもとづくヴァイオレンス、というものがありうるのではないか。 それを必要とするほどに時代は腐り切っているということである。」

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日本を解体に導くもの…
posted by Fukutake at 09:31| 日記