「ぼちぼち結論」 養老孟司 中公新書 2007年
書評『人生があなたを待っている』* H・クリングバーグ・ジュニア著 p117〜
「『夜と霧』『死と愛』などの著者、ウィーン出身の精神科医、ロゴセラピーの創始者、ナチ強制収容所の生き残り、ヴィクトール・フランクルは、いわば世界の著名人である。フランクルが九十二歳で亡くなったのは、一九九七年九月二日。 本書はそのフランクルの伝記である。
フランクル自身の著作に親しんだ私にとって、彼が入れられた収容所がアウシュビッツだけではなかったということに、あらためて気づかされた。
この伝記、またフランクル自身の著作を、もし読んだことがないのであれば、いまの日本人にぜひ読んで欲しい。 私は強くそう思う。 いわずもがなのことだが、フランクルは「他人が人生の意義を見出すことの手伝いをする」ことを天職として生きた人である。 小・中学生のような気分でいうなら、私の尊敬する人物といっていい。 日本がさまざまな意味でアメリカ化している現在、アメリカに多くの崇拝者を持つフランクルの言葉をしみじみ聞いて欲しいと思う。 アメリカの講演でフランクルはいう。 「ヨーロッパでは、成人したアメリカ人というのは、お金を稼ぐことばかりに熱心だとみなされがちです。 しかし大学生を対象とした他の調査では、人生の主要な目標はお金をたくさん稼ぐことだと答えた学生は、十六%にすぎませんでした。 なにがいちばん重要な目標だったか、皆さん、おわかりになりますか? このアメリカの若者の七十八%が、人生における意味と目的を探すことに関心を寄せていたのです」。
とはいえ、フランクルもいくつかの批判にさらされている。 ウィーン出身の国連事務総長ワルトハイムに、ナチの将校という過去を隠したという批判が起きたとき、フランクルは頑として友人を守り、自身も非難された。 そういうことは、フランクル自身の著作を読めば、当然わかることである。 彼は集団的な罪を認めない。 そに背後には、敬虔なユダヤ教徒としての強い信仰があった。 著者は書く。 「フランクルが他者の政治的な批判に従い、誰とつき合うべきかという意見を聞き入れると思う人があったら、その人は彼をよく知らないのだ。 フランクルはいかなる圧力にも屈しない。 彼は悪意と復讐に対しては情け容赦がない。 彼は憎悪を抱かないという自分の決意を堅く守り、皮肉な話だが、まさにその理由のために多くの人びとの憎しみを買うことになった」。
強制収容所から生還したことについて、フランクルはいう。 「生きて戻った私たちは、無数の幸運な偶然または神の奇跡 ー どのような表現するかは人それぞれだが ー によって助かった。 私たちはそれをよく知っているから、静かにこう言うのだ。 もっともすぐれた人たちは、戻ってこなかった、と。」
過去の戦争を体験し、これをいうことのできる人たちは、もはやほとんど生き残っていないであろう。 八月十五日には、靖国問題で大騒ぎする代わりに、フランクルでも読んだらどうか。 フランクルはすぐれた人物だが、別に聖人君子ではない。 ただの人がここまで行き着くことができるということ、それが私を感動させる。」
『人生があなたを待っている』* (赤坂桃子訳、みすず書房)
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2023年01月15日
自分の人生に何ができるか
posted by Fukutake at 12:05| 日記
時の勢い
「宮ア市定全集 24」 ー随筆(下)ー 岩波書店 1994年
『京大東洋史』あとがき p480〜
「『京大西洋史』の姉妹編として、『京大東洋史』編纂の相談を受けたのは昭和二十六年初夏のころであった。 出版書肆創元社に招かれ、われわれには不似合いな先斗町のどこかで、最初の執筆者打合せ会を開いた。 『京大東洋史』というのはおかしな名前だが、すでに『京大西洋史』が出てしまった後なので、それをそのままうのみにするほかなかった。
この本が書かれたのはちょうど、北京に人民政府が成立して大陸をその支配下に収めた直後にあたる。 中京政権の中国歴史に対する考え方、或いは解釈のしかたは、そのころでもおおよその見当はつけられたが、われわれは別にそれに従う必要を認めなかった。 近頃になると、そういう中共的な歴史観がいよいよ強く打出されるようになったが、私はいまそれにならって『京大東洋史』を書き直そうとは思わず、それどころか、かえって先方の行き方に大きな危惧の念を抱かざるを得ないでいる。
事実について『京大東洋史』が最近の中共史学の傾向と異なる点を二、三あげれば、太平天国の近代性をそんなに高く評価しないこと、胡適の文学革命や陳独秀の思想革命を比較的高く評価すること。 従って五・四運動を単独には評価しないことなどである。 清朝が征服王朝だからといって、これに反対するものはなんでもかでも義軍にしてしまい、胡適は反共だから、陳独秀は共産主義の失敗者だからといって、その当時の役割を無理に引下げようとするのはわれわれから見れば余計な苦労である。 われわれは中共史学がこれ以上この方向に突進せず、親ソ派がここらで矛を収めることを希望してやまない。
およそ歴史には、個人的な愛憎や政治権力の都合でどんなに無視しようとしても、無視することができない客観的真実があることをわれわれは信ずる。 ただしこの客観的真実は自然科学のように、読者の目の前に実験して見せるわけに行かない。 ただ、無理はけっして長つづきせず、長い時間の経過のあいだに客観的真実のみが次第に明らかに現れてくるものだ、ということだけは確かだと思う。
中国のことわざに「人盛んなる時は天に勝つ、天定まりて人に勝つ」という言葉がある。 勢いにのると人間は理法を越えて随分無理なこともやればできるが、やがて社会が安定を取りもどすと、無理をしたものが追出され番がくる、という意味である。 われわれは長い目で歴史を眺めたい。 もしもその点で、感激のない歴史叙述だ、と評されるなら評されても構わない。
私は借金した金で相場をうつようなことをしたくない。 その日その日の上り下りで一喜一憂せねばならぬのはご免である。 たとえ小さくても自分のものを持って、それを守り育てて行きたいと思う。」
(『京大新聞』一九五六年十一月十九日)
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勢いは恐ろしい
『京大東洋史』あとがき p480〜
「『京大西洋史』の姉妹編として、『京大東洋史』編纂の相談を受けたのは昭和二十六年初夏のころであった。 出版書肆創元社に招かれ、われわれには不似合いな先斗町のどこかで、最初の執筆者打合せ会を開いた。 『京大東洋史』というのはおかしな名前だが、すでに『京大西洋史』が出てしまった後なので、それをそのままうのみにするほかなかった。
この本が書かれたのはちょうど、北京に人民政府が成立して大陸をその支配下に収めた直後にあたる。 中京政権の中国歴史に対する考え方、或いは解釈のしかたは、そのころでもおおよその見当はつけられたが、われわれは別にそれに従う必要を認めなかった。 近頃になると、そういう中共的な歴史観がいよいよ強く打出されるようになったが、私はいまそれにならって『京大東洋史』を書き直そうとは思わず、それどころか、かえって先方の行き方に大きな危惧の念を抱かざるを得ないでいる。
事実について『京大東洋史』が最近の中共史学の傾向と異なる点を二、三あげれば、太平天国の近代性をそんなに高く評価しないこと、胡適の文学革命や陳独秀の思想革命を比較的高く評価すること。 従って五・四運動を単独には評価しないことなどである。 清朝が征服王朝だからといって、これに反対するものはなんでもかでも義軍にしてしまい、胡適は反共だから、陳独秀は共産主義の失敗者だからといって、その当時の役割を無理に引下げようとするのはわれわれから見れば余計な苦労である。 われわれは中共史学がこれ以上この方向に突進せず、親ソ派がここらで矛を収めることを希望してやまない。
およそ歴史には、個人的な愛憎や政治権力の都合でどんなに無視しようとしても、無視することができない客観的真実があることをわれわれは信ずる。 ただしこの客観的真実は自然科学のように、読者の目の前に実験して見せるわけに行かない。 ただ、無理はけっして長つづきせず、長い時間の経過のあいだに客観的真実のみが次第に明らかに現れてくるものだ、ということだけは確かだと思う。
中国のことわざに「人盛んなる時は天に勝つ、天定まりて人に勝つ」という言葉がある。 勢いにのると人間は理法を越えて随分無理なこともやればできるが、やがて社会が安定を取りもどすと、無理をしたものが追出され番がくる、という意味である。 われわれは長い目で歴史を眺めたい。 もしもその点で、感激のない歴史叙述だ、と評されるなら評されても構わない。
私は借金した金で相場をうつようなことをしたくない。 その日その日の上り下りで一喜一憂せねばならぬのはご免である。 たとえ小さくても自分のものを持って、それを守り育てて行きたいと思う。」
(『京大新聞』一九五六年十一月十九日)
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勢いは恐ろしい
posted by Fukutake at 12:02| 日記