「さまよえる魂のうた」 小泉八雲コレクション ちくま文庫 2004年
読書について p244〜
「多くの書物について信頼のできる評価を下すためには、人は多方面にわたる能力を持っていなければならない。 われわれは時折、一批評家の判断に、信がおけないこともある。 しかし、幾世代にもわたる人びとの判断については、疑いの余地はない。 数百年にもわたって感嘆、絶賛されてきた理由を感じ取ることができるようになる。 貧しい人にとって、最上の図書館とは、すべてこのような偉大な作品、つまり時という試練を経てきた書物からなる図書館である。
そこで、今述べたことが、読書の選択にあたって、最も重要な手引きとなるだろう。 われわれは一度以上読みたくなる本だけを読むべきであり、そのほかの本は金を投ずる何か特別な理由でもないかぎり、買うべきではない。 第二に注意を要することは、このような偉大な書物すべての中にひそんでいる価値の普遍的性質についてである こうした書物は、決して古くならない。 その若さは永遠である。 若い人が偉大な書物を初めて読むとき、表面的にしか理解できないものである。 上面(うわつら)と話だけが吸収され、楽しまれるだけである。 若い人が一度目の読書で、偉大な書物の本質を見ることなどはとうていできるものではない。 多くの場合、こういう書物の中にあるすべてのものを見出すのには、人間は数百年という歳月を要したことを忘れないでほしい。
しかし、本の内容は、人間が人生経験を積むに従って、新しい意味を現わしてくるものである。 すぐれた本であれば、十八歳のときに面白かった本は、二十五歳のときにはもっと面白くなるだろうし、三十歳のときにはまったく新しい本のように思われるであろう。 四十歳になってその本をふたたび読みかえしてみると、なぜこの本の本当の素晴らしさに、これまで気づかなかったのかと思うであろう。 これと同じことが、五十歳、六十歳になっても繰り返される。 偉大な書物は、読者の心の成長にちょうど比例して成長してゆく。 シェイクスピアやダンテのような作家の作品が、偉大なものになったのは、幾世代にもわたる過去の人びとがこの驚くべき事実に気づいたからである。
これはと思う百冊の中から例を挙げるなら、ハンス・アンデルセンの物語を検討してみてもよかろう。 アンデルセンは、道徳的な真理とか社会哲学といったものは、他のどんな方法によるよりも、短いお伽噺や童話を使い方がうまく教えられると考えていた。 そこで、何百という古めかしい物語の助けを借りて、一連の素晴らしい物語を新たに作った。 彼の作品は、どこの図書館でもその一角を占めており、どこの国でも子供より大人に読まれている。
アンデルセンの驚くべき物語に中に人魚に関する話があるが、みなさんはこの作品を読んだことがあると思う。 もちろん、人魚というようなものは存在しない。 ある見方からすれば、この物語はまったく荒唐無稽といってよい。 しかし、この物語が表現している無死の心や愛や忠誠という感情は、不滅のものであり、この上なくうるわしいものである。 この話の構成の非現実性などは、すっかり忘れてしまう。 そして、この寓話の背後にひそむ永遠の真実だけが、見えてくるのである。」
-----
その通り。
基準は何?
「現人神の創作者たち」 山本七平 文藝春秋 昭和五十八年
「華」を目指す「夷」の優等生 p294〜
「江戸期の日本人の問題意識の一つに「なぜ朝廷が政権を喪失したか」があった。 ともに「儒教的発想」という枠内の中で議論したのある。 当時の日本の”進歩的文化人”にはそれ以外にの発想ができず、”儒教的基準”が「唯一の尺度」であったといってよい。この点、戦後の日本人がいわゆる「進歩的民主尺度」、乃至は自らがそう信じた輸入の基準が尺度で、それ以外に尺度を持ち得なかったのと似ている。
戦後の日本はしばしば「西欧の優等生」といわれた。 だがこれは言葉を変えれば「二流の西欧」ということであろう。 もちろん弟子が師にまさり、優等生が先生を凌駕することもあるかもしれない。 しかし凌駕しようとまさろうと、「凌駕したか否か」と基準は「先生」の方にあり、「先生」を尺度としているのであって、弟子を尺度としているのではない。 簡単に言えばメートル尺で一二〇センチの子供を計るようなもの、この場合、子供は一メートルを越えたと言い得ても、子供を基準にメートル尺が低くなったとは言えない。 他文化の規範を受容しそれを自己の基準とすればこのような現象が起こって不思議ではない。 少なくとも現在まで後進国の人びとは「日本に留学してもつまらない。 あれは模倣がうまいだけだから、学ぶなら欧米に行くべきだ」と考えていた。 いまは事情がやや異なっているように見えるが、それは「日本の能率的な学び方を学ぼう」であり、この点では、本質的な差はないと言える。 これは徳川時代でも同じであったろう。 たとえ日本が山鹿素行のように「日本=中国論」を展開しようと、また中国人から高く評価された儒者がいようと、儒学を学ぼうと思う人間は中国に留学しても日本には留学しなかったであろう。 いずれの場合もそうなって当然である。
こうなると徳川時代の日本人の「対中国意識」にきわめて似た点があって不思議ではない。 両者が共通してもつのは極限まで行っても「優等生意識」「師を凌駕した意識」であり、簡単に言えばそれぞれの”本家”への二流国意識なのである。 なぜそうなるのか。 他人の尺度を借りて自己を計っても、自らの尺度を持ち得ないからであろう。 この点では徳川時代も現代も変わりはなく、変わった点と言えば「物差し」を取りかえただけである。 この点では、徳川時代の朱子絶対化は明治の転換を容易にしたといえる。 いわば絶対化の対象を「中国という国」から「西欧という外国」に切りかえただけだからである。 そしてそれは戦後にまたアメリカに切りかえることを容易にした。これがもし、真に自らの伝統から析出した尺度を尺度としていたら、いわば中国のようであったら、このように簡単な「尺度の切りかえ」はできなかったであろう。 しかし、この他人の尺度で自己を計っているという意識はまさざまに屈折した形で出てくる。 それは日本人の「対中国劣等意識」を叱るという形で出てくるが、この「叱っている人」がその叱責の基準としているのが実は「中国の基準」なのである。」
----
「華」を目指す「夷」の優等生 p294〜
「江戸期の日本人の問題意識の一つに「なぜ朝廷が政権を喪失したか」があった。 ともに「儒教的発想」という枠内の中で議論したのある。 当時の日本の”進歩的文化人”にはそれ以外にの発想ができず、”儒教的基準”が「唯一の尺度」であったといってよい。この点、戦後の日本人がいわゆる「進歩的民主尺度」、乃至は自らがそう信じた輸入の基準が尺度で、それ以外に尺度を持ち得なかったのと似ている。
戦後の日本はしばしば「西欧の優等生」といわれた。 だがこれは言葉を変えれば「二流の西欧」ということであろう。 もちろん弟子が師にまさり、優等生が先生を凌駕することもあるかもしれない。 しかし凌駕しようとまさろうと、「凌駕したか否か」と基準は「先生」の方にあり、「先生」を尺度としているのであって、弟子を尺度としているのではない。 簡単に言えばメートル尺で一二〇センチの子供を計るようなもの、この場合、子供は一メートルを越えたと言い得ても、子供を基準にメートル尺が低くなったとは言えない。 他文化の規範を受容しそれを自己の基準とすればこのような現象が起こって不思議ではない。 少なくとも現在まで後進国の人びとは「日本に留学してもつまらない。 あれは模倣がうまいだけだから、学ぶなら欧米に行くべきだ」と考えていた。 いまは事情がやや異なっているように見えるが、それは「日本の能率的な学び方を学ぼう」であり、この点では、本質的な差はないと言える。 これは徳川時代でも同じであったろう。 たとえ日本が山鹿素行のように「日本=中国論」を展開しようと、また中国人から高く評価された儒者がいようと、儒学を学ぼうと思う人間は中国に留学しても日本には留学しなかったであろう。 いずれの場合もそうなって当然である。
こうなると徳川時代の日本人の「対中国意識」にきわめて似た点があって不思議ではない。 両者が共通してもつのは極限まで行っても「優等生意識」「師を凌駕した意識」であり、簡単に言えばそれぞれの”本家”への二流国意識なのである。 なぜそうなるのか。 他人の尺度を借りて自己を計っても、自らの尺度を持ち得ないからであろう。 この点では徳川時代も現代も変わりはなく、変わった点と言えば「物差し」を取りかえただけである。 この点では、徳川時代の朱子絶対化は明治の転換を容易にしたといえる。 いわば絶対化の対象を「中国という国」から「西欧という外国」に切りかえただけだからである。 そしてそれは戦後にまたアメリカに切りかえることを容易にした。これがもし、真に自らの伝統から析出した尺度を尺度としていたら、いわば中国のようであったら、このように簡単な「尺度の切りかえ」はできなかったであろう。 しかし、この他人の尺度で自己を計っているという意識はまさざまに屈折した形で出てくる。 それは日本人の「対中国劣等意識」を叱るという形で出てくるが、この「叱っている人」がその叱責の基準としているのが実は「中国の基準」なのである。」
----
posted by Fukutake at 07:49| 日記